ルーベンスの生い立ち

このページでは、ペーテル・パウロ・ルーベンスの22歳までの歩んできた道―生い立ち―を記しましょう。

1577年6月28日ドイツのジーゲンで生まれ、ケルンで幼少期を過ごした。

両親はアントワープ出身であったが、1560年代の反宗教改革カトリックの嵐がアントワープの町を襲い戦争状態になったために、ケルンへ逃れたプロテスタントカルヴァン派の今でいう宗教難民であった。

外地で生まれたルーベンスにとって 国家間の緊張、小国として生きるための知恵と察知能力を本能として身に着け、生まれながらにして外交の素質に優れた遺伝子を持っていたといえよう。

亡くなった父親は優秀な法律家で、幼い子供たちに当時の上流階級の国際言語イタリア語とラテン語そしてローマの古典文学を教えたという。

10歳の時に父親が亡くなると、母、マリア・ぺーぺリンクスは一家で夫婦の故郷であるアントワープへ帰国する。
アントワープでは母親の希望で教会附属学校でラテン語、ギリシャ語の勉強をし、ここでも古典の名作に出会っている。彼の言語力と読み書きの才能には目を瞠るものがあったらしい。

画家を志したのは14歳の頃であった。地元の風景画家に弟子入りした。幸運なことに16世紀末アントワープは芸術の中心地として栄え、大物の画家たちがひしめいていた。

15歳のころにはファン・ノートルのもとに移った。彼は人物画家であったが、人物画には歴史画や寓意画が含まれるので未来の制作の基礎を学んだことになる。

ルーベンスにイタリア行きを勧めたオットー・ヴァン・ヴェーン『最後の晩餐』(1592年)

ルーベンスにイタリア行きを勧めたオットー・ファン・フェーン『最後の晩餐』(1592年)

17歳の時に3人目の師匠オットー・ファン・フェーンの弟子となった。ファン・フェーンは優れた知性の持ち主でアントワープの[ロマニスト]、イタリアで学んだフランドル画家の一群であった。彼らはルネッサンス、ギリシャ、ローマの文学の研究に基づいて、キリスト教的世界観とより世俗的な人間中心的な観点の融和をはかる伝統に裏打ちされた作品を制作した。ルーベンスがこの師の下で修業を積んだのは幸運なことであった。天性の才能があったのであろう。

1598年 親方の資格を取得し、独立して制作が出来、注文も受けることが可能になった。この頃から先輩の例に倣いルーベンスの心は画業の総決算としてイタリア・ローマへ行くことに傾いていった。
ついに念願がかない、1600年5月9日旅立ちの日を迎える。