1609年 32歳 イザベラ・ブラントと結婚『スイカズラの木陰』

1609年10月5日にイサべラ・ブラントという女性と結婚し、ルーベンスの母の眠る教会で式を挙げました。

彼女の父は、市でも指折りの富豪でかつ教養人でありました。
イサベラはルーベンスより14歳年下でしたが、誠実で聡明、心温かな女性で、
お気に入りの伴侶でありました。

『スイカズラの木陰』という新婚夫妻の肖像画があります。
新婚夫婦の肖像画としてため息が出るほどの画です。
スイカズラは永遠の愛を表わすものだそうで幸福感が伝わってきます。

ルーベンス『スイカズラの木陰』ミュンヘン・アルテピナコテーク所蔵

ルーベンス『スイカズラの木陰』ミュンヘン・アルテピナコテーク所蔵

 

ヴァッペル運河沿いに広大な邸宅を購入して邸宅の大改造を始めました。
目まぐるしくも精力的な人生の始まりです

ケルン~ヴァルラフ・リヒャルツ美術館

 

とにかく大きなケルン大聖堂

とにかく大きなケルン大聖堂は駅前

ケルン ライン川にかかるホーエンツォレルン橋 遠くにケルン大聖堂

ライン川にかかるホーエンツォレルン橋
正面にケルン大聖堂、左手にケルンフィルのコンサートホール

 

 

 

 

 

ベルギーからドイツに入ると国の違いが感じられます。ベルギーが“柔”とするとドイツは良い表現が見つからないが“硬水”といってよいでしょうか、我が国日本と似ているのです。
ライン川のほとり、大聖堂の裏に格式の高いコンサートホールがあるのですが、その敷地の横に歩道がありライン川河岸のほとりに下る道が続いています。ライン川の畔で散策を楽しむので多くの観光客が行き来しています。その敷地を横切ると近道になるので多くの人が敷地に入ろうとしますが、おっとこどっこい!警備員が4,5人もいて入らないよう注意するのです!
こんなことを我が国でも経験しますでしょう?官のすることはどこでも同じようです。

さて、ケルンにある美術館をご紹介しましょう。Wallraf-Richartz Museumといいます。大聖堂から歩いて10分ほどのところにあります。
美術館を訪れた日は日曜日でもあり、同時に開催されている「アメリカの原点」の展覧会に多くの人が足を運んで大そうにぎわっていました。
目的が違うこちらの方はゆっくり鑑賞できました。

3階にバロックの作品が集まっています

2階部分にバロックの作品が集まっています

 

バロックの作品がある2階に入って正面に飾られているのが、ルーベンス!

ルーベンス「ユノとアルゴス」1611年

ルーベンス「ユノとアルゴス」1611年

 

ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年

ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年
ケルンには古くからの修道院がいくつか存在していましたが アントワープのカプチン派の修道会は勢いがありました。ライン川地方の都会、ケルンにカプチン派修道院を建てて、聖フランシスの祭壇画をルーベンスに依頼しました。1616年10月奉献しました。
聖フランシスにまつわる書物が中世から存在し、CONSIDERAZIONIと呼ばれていました。ルーベンスはその中から聖フランシスの逸話をもとに描きました。

ルーベンス「ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年

ルーベンス「ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年の右上部分

ある夜フランシスは断食して祈りを求めて岩山へ入っていきました。
突然雲が分かれて空から天使の光がさしてきました。目を覆うほどのまぶしさでした。天使になったキリストが現れていました。
びっくりした聖フランシスは、天使キリストと何か言葉を交わしながら、目と目を見つめあい、体と体を出合わしている、救い主の十字架の傷跡が聖フランシスにも残った瞬間です。聖フランシスは十字架の苦しみを共に受けたい燃えるような願望がありました。胸にも両手にも聖痕を見ます。

ルーベンスは聖フランシスをウンブリアのやせた体つきではなく、フランドル人の立派な体格に描きました。貧困のイメージはありません。
ルーベンスの祭壇画は新しくやってきたカプチン派の力強い宣伝になりました。

 

この美術館にはルーベンスの“マントバの仲間たち”もありました。

ルーベンス「マントヴァの仲間たち」

ルーベンス「マントヴァの仲間たち」

ルーベンスの奥に、兄フィリップ、右にはルピシウス教授が描かれています。左には、マントヴァの風景でしょうか。ルーベンスにとって大切な思い出なのでしょう。

ルーベンスの奥に、兄フィリップ、右にはルピシウス教授が描かれています。左には、マントヴァの風景でしょうか。ルーベンスにとって、大切な思い出なのでしょう。

 

有名な「聖家族」1634年もありました。

ルーベンス「聖家族」1634年

ルーベンス「聖家族」1634年

 

展示室の様子~正面がルーベンス

展示室の様子~正面がルーベンス

 

若きルーベンスと並んで、レンブラントもありました

若きルーベンスと並んで、レンブラントもありました

 

ケルン大聖堂からほど近いですし、ほかにも、ルノワール、モネ、ゴッホ、ムンクなど名画がそろっていますので、ケルンに行かれた際には是非立ち寄ってみてください。

Wallraf-Richartz Museum
https://www.wallraf.museum/
月曜日 休館

 

奥に見えるのが大聖堂。美術館へはこの工事中の横を通り抜けました。

奥に見えるのが大聖堂。美術館へはこの工事中の横を通り抜けました。

 

ルーベンスが10歳まで過ごしたケルンのペーター教会

シント・ピーター教会(ザンクト・ペーター教会)は、ケルンにある教会です。

父親が埋葬されている、ケルンのSt,Peter教会

父親が埋葬されている、ケルンのSt.Peter教会

ケルン駅のそば、ライン川のほとりに立つケルン大聖堂から徒歩20~30分のところでした。
ルーベンスの父は1587年ケルンで亡くなりこの教会で葬儀が行われました。

ジーゲンから引っ越してきて、ルーベンス一家は、このケルンに10年間住みました。
父親ヤンは赦免されてケルンで有能な法律家として成功していましたから、お屋敷に住むことが出来たようです。なぜなら、後年、フランスの大公妃マリー・ド・メディシスが母国を王である息子ルイ13世に追われた時彼女はこの家に逃避したということですので想像がつきます。

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

 

この教会の近くにあるSTEENENGASSEという通りに面したところにお屋敷があったようで、
通りの名前は今でもありました。
お金持ちのヤーバッハ一族もここに住んでいたようです。

 

 

がらんとした内部のSt,Peter教会

がらんとした内部のSt.Peter教会

教会の外観は特徴がなくてどこから入ってよいのかわからなくて、一角一回りしてしまいました。
表示がないので入っていいものかどうかわからず行ったり来たりしてしまいましたが、ここまで来たのだからと勇気を出して中に一歩入ってびっくり、がらんとしています。家具一つ置いてありません。
でも教会です。ステンドグラスが入っています。

そして、ルーベンスの晩年の傑作が飾られていました。

 

 

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図 1636年

 

聖ペテロの十字架の祭壇画
父親のお墓の上にあるルーベンスの守護聖人でもあるペテロの殉教図の祭壇画です。
正面の壁にルーベンスの“ペテロの逆さ十字架”が一枚飾られていました。
守衛ではなく教会関係の方と思しき方が一人いて説明を受けました。
確かにルーベンスの絵だということ、現在この建物は日曜日にはここに集まり椅子を並べて教会となるのですが、週日は画廊になったり貸会堂になっているということでした。
12世紀には、ロメネスク様式の教会が建てられていましたが、第二次世界大戦でほぼ完全に破壊されたようで、現在の建物は戦後再建されたもののようです。写真でご覧になるとお分かりですが全く殺風景な教会内部でした。現実をぐっとひきよせられドイツの国の宗教感を見た気がしました。そのような中で、よくぞルーベンスの絵が残っていたものです。

ルーベンスはケルンのペーター教会に祭壇画をと、商業と金融業を営むヤーバッハ家から描くことを依頼されました。

ルーベンスは1578年から1589年までケルンに幼少期を過ごしましたから、父親との思い出が蘇ってきたことでしょう。そして、一度もここに帰ることがなかったことも。

テーマのことは教区司祭とも相談しました。「湖上で救われるペテロ」「ペテロの否認」「天国の鍵の授与」などありましたが、結局ルーベンスに任されたようです。沢山のペテロの逸話から考えてルーベンスはこのテーマを決めました。黄金伝説によるとペテロは逆さに十字架に掛けられることを望んだということです。

ル-ベンス自身も1637年になると持病の通風もひどく、人生を感じる年になっていたのでしょう、殉教の図を描くことに熱中しています。
図像的には、この画はルーベンスがキリスト教と新ストア派哲学の関連を意識していた証拠ということらしいです。
聖ペテロの姿は<セネカの死>のセネカに似ています。セネカはペテロと同時代の人であり、どちらも皇帝ネロの治世に死を宣告されました。
キリスト教に近い人はセネカを隠れキリスト教徒とみなす伝統にルーベンスは親しんでいました。
ルーベンスは内心、この画をヤン・ルーベンスに捧げる墓碑画として描いたのかもしれません。
芸術の可能性の限度と同時に彼の敬虔なる感情の限度に達しての何か“特別なもの”に挑戦したとのことです。

そして、1642年ルーベンスの死の2年後にこの教会に設置されました。

ルーベンスの父が回心したカルヴァン派とは

ルーベンスの両親は、放免されてケルンに戻った後カトリックに戻ってしまうので、ルーベンスとカルヴァンの関係は直接なかったにしても、両親を回心させたほどの人物カルヴァンですからルーベンスに影響を与えなかったわけはないでしょう。

そこで、宗教改革の初期の指導者であるカルヴァンについて、ここで学んでみたいと思います。

興味のある方はどうぞ・・・・資料はJG同窓会「世界史」講義、(松井叔子先生)より抜粋。

ジャン=カルヴァン(1509~64)
フランス東北部、ピカルディー地方のノワイヨンに生まれた。父ジェラール=コーヴァンはノワイヨン司教区で教会関係の役職(秘書・会計など)を勤める比較的富裕な市民,姓コーヴァンは後にラテン語化してカルヴィヌス、さらにフランス語化してカルヴァンと呼ばれるようになる。ジャンは父の希望で高等教育を受けることになり、12才でコレージュ=ド=カペットで古典学の基礎を身につけ、傍らノワイヨン大聖堂で剃髪し教会録を受けている。

1523年、この地にペストが流行したのを機にパリに赴く。
1523年 14才、パリ大学では人文主義的なマルシュ学寮で典雅な文体と福音主義的思想を学ぶ。
1年後、モンテーギュ学寮に移る。この「虱だらけの学寮」の非衛生で極端な禁欲、過酷で因習的な教育の中でカルヴァンは健康を害しながらも、忍耐力、論理的思考力、論争の技術を身につけた。
1531年 「王立教授団」でヘブライ語、ギリシャ語を学ぶ。
1534年 パリ大学学長に選ばれた親友の二コラ=コップの就任演説が福音主義的だったため高等法院からとがめられ、二人とも国外に逃亡。
1536年 バーゼルに亡命し「キリスト教綱要」を発表。大きな反響を得る。27才に満たぬカルヴァンは一躍プロテスタントの理論的指導者となる。ジュネーブの教会と市民生活の改革に乗り出す。
1538~41 急激な改革が反発を受け、反対派によって一時ジュネーブを追放される。
1541年 ジュネーブに戻り「プロテスタントの教皇」として同市の福音化に成功「神権政治」改革派としての教会再組織、教会規律の確立。
1553年 スペイン生まれの、医者、神学者ジャン=セルヴェを異端として火刑に処する。ずっと後年  1903年カルヴァン崇拝者たちが「師の世紀の過ち」として処刑地に贖罪記念碑を建立するという逸話がある。
1555年 暴動を起こした快楽主義的なリベルタンを極刑に処す。
1559年 大学を創設。カルヴァン主義を伝える優れた神学者、説教者を養成。
1564年 他界

カルヴァンが突然に回心したという文があります。
「教皇派の教えは底知れぬ泥沼のようなもので、ここから引き出されるのは実に困難なことだったが、私が、この教皇派の迷信に頑なに没入していた時、神は突然の回心によって…私の心を征服し、ととのえて従順にし給うた」
(1557 「詩編注解」序文より)

カルヴァンの現世肯定
(キリスト者の生活の)原則は、神のたまものを誤って用いないようにすることに尽きます。創造主である神はこの賜物を私たちのために定めました。すなわち、神は私たちの益になるために、この賜物を創造しました。決して害になるためではありません。主は私たちの眼で花が見えるための色の美しさを与え、私たちの鼻でかげるため香りの甘さを与えます。従って、私たちの眼が美しさを知ることは不虔でしょうか?あるいは私たちの鼻が善い香りをかぐことは不虔でしょうか?どうでしょう?…神は金と銀、象牙と大理石に、他の金属や石よりも貴い美しさを与えているではありませんか?一言でいえば、日用に使われる物の他に、ある物が称えられるように創造したのではないでしょうか?

(キリスト教綱要 3・10・2)
私たちは自分のものではありません。…私たちは神のものです。それゆえ私たちは神の為に生き、神のために死ななければなりません。(綱要3・7・1)
私たちは自分のものを求めず、神の意志から出ているものを求め、神の栄光を輝かすように生きなければならないということです。(綱要3・7・2)
世俗的禁欲と職業労働に励み、蓄財を肯定し、正当化したことは産業市民層にアピールして、彼らの職業倫理を形成し、資本主義の発達し始めた地域に広まっていきました。イングランドでは「ピューリタン」 スコットランドでは「プレスビテリアン」フランスでは「ユグノー」 オランダでは「ゴイセン」と呼ばれていました。大航海時代を迎え、荒海を乗り越えて植民地を獲得する帆船には カトリックの司教は不在でした。乗組員から選ばれた人が牧師となりました。万人祭司の説にマッチしています。海軍国オランダに富が集まるようになりプロテスタントは新天地で急速に力を付けました。
以上 カルヴァンの歴史を学んでみました。

因みに、カトリック教会の勢力挽回に寄与したイエズス会が、日本に1549年マカオより来航し、キリスト教を九州・西日本地方に広めましたが幕府の鎖国政策、禁教令により、隠れキリシタンの殉教の苦難の歴史が始まります。
一方それより100年後、1620年メイフラワー号で新大陸アメリカへ渡ったプロテスタントはその後大きな組織となりました。

アメリカで西部開拓が終了すると、明治時代初期(1870年)に東京、築地に多くの宣教師が来航し、ミッションスクールを建てることによりキリスト教を広めました。
大変大雑把に申すことを許していただけるならば、ヨーロッパから西回りと東回りでカトリックとプロテスタントが伝道されたユニークな歴史が日本にはあります。
ただ、信者の数は両方を合わせても日本の人口の1パーセントにも満たないのが現状です。

2017年には、宗教改革がなされて500年の記念祭がありました。「カトリックとプロテスタントが一緒になりましょう」というエキュメニカル運動が芽生えてはいますが、ローマ法王を抱くカトリックと万人祭司主義のプロテスタントが一緒になるのは前途多難と思えます。

ルーベンス生誕の地~Siegen その2

翌朝は日曜日。
駅の反対側に「ルーベンス通り」があることを知ったので出かけてみました。

駅の反対側に行くための、線路の上を渡る大きな陸橋

駅の反対側に行くための、線路と高速の上を渡る大きな陸橋

Siegenの住宅街

Siegenの住宅街
遠くにalt stadtが望めます

 

 

 

 

 

人の通りもまばらでした。広い線路をまたぐ長い鉄橋を超えて坂道をゆっくり歩いていくと住宅街に入りました。寒いこの時期に住宅の玄関先に青色、黄色のクロッカスやムスカリの花が鮮やかに咲いていたのが今でも目に移ります。

Rubens Strusse

Rubens Strasse
P.P.Rubensとの関係は不明

とうとう「ルーベンス通り」を見つけることが出来ました。

 

その一角、嗅覚に導かれたようです・・・教会がありました。

教会をみつけました

教会をみつけました

 

 

広い土地のくぼみに存在して小道を下らなければなりません、表札もないのですが、前に人が一人入っていくのが見えましたので、私も勇気をだして玄関のドアを押してみました。

導かれたかのように訪れた教会

導かれたかのように訪れた教会

すると中には数名の人がいらして、「お茶をどうぞ」と声をかけられました。11時から礼拝があるとのことです。私たちと同じ改革派、プレスビテリアンの教会(長老派)ということも分かりました。広く明るい礼拝堂を見せていただきました。オルガンが二台ありました。

皆さん、快く私を招き入れご挨拶をして下さいましたが、ケルンに帰る時間のことを考えて、後ろ髪をひかれる思いでお別れをしました。
ご老人が多いのはどこも一緒でしたが、広い子供部屋、お庭があるところを見るときっと幼稚園を兼ねているのでしょう。

ジーゲン市はヨーロッパの現代芸術家を対象に、5年に一度“ルーベンス賞”を設けているらしいです。バロックの巨匠の生誕の地を誇る市は、遅ればせながら価値ある街の宣伝に本腰を上げていることが見えてきました。現在でいえばルーベンスはドイツ人ではなくベルギー人ですから遠慮の気持ちもあることでしょう。