ルーベンスの父が回心したカルヴァン派とは

ルーベンスの両親は、放免されてケルンに戻った後カトリックに戻ってしまうので、ルーベンスとカルヴァンの関係は直接なかったにしても、両親を回心させたほどの人物カルヴァンですからルーベンスに影響を与えなかったわけはないでしょう。

そこで、宗教改革の初期の指導者であるカルヴァンについて、ここで学んでみたいと思います。

興味のある方はどうぞ・・・・資料はJG同窓会「世界史」講義、(松井叔子先生)より抜粋。

ジャン=カルヴァン(1509~64)
フランス東北部、ピカルディー地方のノワイヨンに生まれた。父ジェラール=コーヴァンはノワイヨン司教区で教会関係の役職(秘書・会計など)を勤める比較的富裕な市民,姓コーヴァンは後にラテン語化してカルヴィヌス、さらにフランス語化してカルヴァンと呼ばれるようになる。ジャンは父の希望で高等教育を受けることになり、12才でコレージュ=ド=カペットで古典学の基礎を身につけ、傍らノワイヨン大聖堂で剃髪し教会録を受けている。

1523年、この地にペストが流行したのを機にパリに赴く。
1523年 14才、パリ大学では人文主義的なマルシュ学寮で典雅な文体と福音主義的思想を学ぶ。
1年後、モンテーギュ学寮に移る。この「虱だらけの学寮」の非衛生で極端な禁欲、過酷で因習的な教育の中でカルヴァンは健康を害しながらも、忍耐力、論理的思考力、論争の技術を身につけた。
1531年 「王立教授団」でヘブライ語、ギリシャ語を学ぶ。
1534年 パリ大学学長に選ばれた親友の二コラ=コップの就任演説が福音主義的だったため高等法院からとがめられ、二人とも国外に逃亡。
1536年 バーゼルに亡命し「キリスト教綱要」を発表。大きな反響を得る。27才に満たぬカルヴァンは一躍プロテスタントの理論的指導者となる。ジュネーブの教会と市民生活の改革に乗り出す。
1538~41 急激な改革が反発を受け、反対派によって一時ジュネーブを追放される。
1541年 ジュネーブに戻り「プロテスタントの教皇」として同市の福音化に成功「神権政治」改革派としての教会再組織、教会規律の確立。
1553年 スペイン生まれの、医者、神学者ジャン=セルヴェを異端として火刑に処する。ずっと後年  1903年カルヴァン崇拝者たちが「師の世紀の過ち」として処刑地に贖罪記念碑を建立するという逸話がある。
1555年 暴動を起こした快楽主義的なリベルタンを極刑に処す。
1559年 大学を創設。カルヴァン主義を伝える優れた神学者、説教者を養成。
1564年 他界

カルヴァンが突然に回心したという文があります。
「教皇派の教えは底知れぬ泥沼のようなもので、ここから引き出されるのは実に困難なことだったが、私が、この教皇派の迷信に頑なに没入していた時、神は突然の回心によって…私の心を征服し、ととのえて従順にし給うた」
(1557 「詩編注解」序文より)

カルヴァンの現世肯定
(キリスト者の生活の)原則は、神のたまものを誤って用いないようにすることに尽きます。創造主である神はこの賜物を私たちのために定めました。すなわち、神は私たちの益になるために、この賜物を創造しました。決して害になるためではありません。主は私たちの眼で花が見えるための色の美しさを与え、私たちの鼻でかげるため香りの甘さを与えます。従って、私たちの眼が美しさを知ることは不虔でしょうか?あるいは私たちの鼻が善い香りをかぐことは不虔でしょうか?どうでしょう?…神は金と銀、象牙と大理石に、他の金属や石よりも貴い美しさを与えているではありませんか?一言でいえば、日用に使われる物の他に、ある物が称えられるように創造したのではないでしょうか?

(キリスト教綱要 3・10・2)
私たちは自分のものではありません。…私たちは神のものです。それゆえ私たちは神の為に生き、神のために死ななければなりません。(綱要3・7・1)
私たちは自分のものを求めず、神の意志から出ているものを求め、神の栄光を輝かすように生きなければならないということです。(綱要3・7・2)
世俗的禁欲と職業労働に励み、蓄財を肯定し、正当化したことは産業市民層にアピールして、彼らの職業倫理を形成し、資本主義の発達し始めた地域に広まっていきました。イングランドでは「ピューリタン」 スコットランドでは「プレスビテリアン」フランスでは「ユグノー」 オランダでは「ゴイセン」と呼ばれていました。大航海時代を迎え、荒海を乗り越えて植民地を獲得する帆船には カトリックの司教は不在でした。乗組員から選ばれた人が牧師となりました。万人祭司の説にマッチしています。海軍国オランダに富が集まるようになりプロテスタントは新天地で急速に力を付けました。
以上 カルヴァンの歴史を学んでみました。

因みに、カトリック教会の勢力挽回に寄与したイエズス会が、日本に1549年マカオより来航し、キリスト教を九州・西日本地方に広めましたが幕府の鎖国政策、禁教令により、隠れキリシタンの殉教の苦難の歴史が始まります。
一方それより100年後、1620年メイフラワー号で新大陸アメリカへ渡ったプロテスタントはその後大きな組織となりました。

アメリカで西部開拓が終了すると、明治時代初期(1870年)に東京、築地に多くの宣教師が来航し、ミッションスクールを建てることによりキリスト教を広めました。
大変大雑把に申すことを許していただけるならば、ヨーロッパから西回りと東回りでカトリックとプロテスタントが伝道されたユニークな歴史が日本にはあります。
ただ、信者の数は両方を合わせても日本の人口の1パーセントにも満たないのが現状です。

2017年には、宗教改革がなされて500年の記念祭がありました。「カトリックとプロテスタントが一緒になりましょう」というエキュメニカル運動が芽生えてはいますが、ローマ法王を抱くカトリックと万人祭司主義のプロテスタントが一緒になるのは前途多難と思えます。

ルーベンス生誕の地~Siegen その2

翌朝は日曜日。
駅の反対側に「ルーベンス通り」があることを知ったので出かけてみました。

駅の反対側に行くための、線路の上を渡る大きな陸橋

駅の反対側に行くための、線路と高速の上を渡る大きな陸橋

Siegenの住宅街

Siegenの住宅街
遠くにalt stadtが望めます

 

 

 

 

 

人の通りもまばらでした。広い線路をまたぐ長い鉄橋を超えて坂道をゆっくり歩いていくと住宅街に入りました。寒いこの時期に住宅の玄関先に青色、黄色のクロッカスやムスカリの花が鮮やかに咲いていたのが今でも目に移ります。

Rubens Strusse

Rubens Strasse
P.P.Rubensとの関係は不明

とうとう「ルーベンス通り」を見つけることが出来ました。

 

その一角、嗅覚に導かれたようです・・・教会がありました。

教会をみつけました

教会をみつけました

 

 

広い土地のくぼみに存在して小道を下らなければなりません、表札もないのですが、前に人が一人入っていくのが見えましたので、私も勇気をだして玄関のドアを押してみました。

導かれたかのように訪れた教会

導かれたかのように訪れた教会

すると中には数名の人がいらして、「お茶をどうぞ」と声をかけられました。11時から礼拝があるとのことです。私たちと同じ改革派、プレスビテリアンの教会(長老派)ということも分かりました。広く明るい礼拝堂を見せていただきました。オルガンが二台ありました。

皆さん、快く私を招き入れご挨拶をして下さいましたが、ケルンに帰る時間のことを考えて、後ろ髪をひかれる思いでお別れをしました。
ご老人が多いのはどこも一緒でしたが、広い子供部屋、お庭があるところを見るときっと幼稚園を兼ねているのでしょう。

ジーゲン市はヨーロッパの現代芸術家を対象に、5年に一度“ルーベンス賞”を設けているらしいです。バロックの巨匠の生誕の地を誇る市は、遅ればせながら価値ある街の宣伝に本腰を上げていることが見えてきました。現在でいえばルーベンスはドイツ人ではなくベルギー人ですから遠慮の気持ちもあることでしょう。