ルーベンス生誕の地~Siegen その2

翌朝は日曜日。
駅の反対側に「ルーベンス通り」があることを知ったので出かけてみました。

駅の反対側に行くための、線路の上を渡る大きな陸橋

駅の反対側に行くための、線路と高速の上を渡る大きな陸橋

Siegenの住宅街

Siegenの住宅街
遠くにalt stadtが望めます

 

 

 

 

 

人の通りもまばらでした。広い線路をまたぐ長い鉄橋を超えて坂道をゆっくり歩いていくと住宅街に入りました。寒いこの時期に住宅の玄関先に青色、黄色のクロッカスやムスカリの花が鮮やかに咲いていたのが今でも目に移ります。

Rubens Strusse

Rubens Strasse
P.P.Rubensとの関係は不明

とうとう「ルーベンス通り」を見つけることが出来ました。

 

その一角、嗅覚に導かれたようです・・・教会がありました。

教会をみつけました

教会をみつけました

 

 

広い土地のくぼみに存在して小道を下らなければなりません、表札もないのですが、前に人が一人入っていくのが見えましたので、私も勇気をだして玄関のドアを押してみました。

導かれたかのように訪れた教会

導かれたかのように訪れた教会

すると中には数名の人がいらして、「お茶をどうぞ」と声をかけられました。11時から礼拝があるとのことです。私たちと同じ改革派、プレスビテリアンの教会(長老派)ということも分かりました。広く明るい礼拝堂を見せていただきました。オルガンが二台ありました。

皆さん、快く私を招き入れご挨拶をして下さいましたが、ケルンに帰る時間のことを考えて、後ろ髪をひかれる思いでお別れをしました。
ご老人が多いのはどこも一緒でしたが、広い子供部屋、お庭があるところを見るときっと幼稚園を兼ねているのでしょう。

ジーゲン市はヨーロッパの現代芸術家を対象に、5年に一度“ルーベンス賞”を設けているらしいです。バロックの巨匠の生誕の地を誇る市は、遅ればせながら価値ある街の宣伝に本腰を上げていることが見えてきました。現在でいえばルーベンスはドイツ人ではなくベルギー人ですから遠慮の気持ちもあることでしょう。

ルーベンス生誕の地~Siegen その1

ジーゲン駅

ジーゲン駅

ジーゲンと読みます。
ケルンから75キロメートル、ケルン中央駅から快速特急で1時間半の距離でした。高原風の山林、川、牧場を通過します。東京の新宿から中央線に乗って大月、甲府方面へ出ていくのと似ている風景かなと思います。かつては鉄鉱石を産出して栄えたそうです。

ここは ナッソー家という領主が治めていました。カトリックからプロテスタントに改宗した領主ウィレム・オレンジ公です。ネーデルランドがスペインの統治になることに反旗を翻し、ドイツ諸侯に援軍を求め、戦いに戦いを重ねネーデルランド北部を勝ち取り、現在のオランダを建国した方です。

坂を上ります

坂を上ります

そのためにプロテスタントを受け入れたのでしょう。度量の大きな方に違いありません。

ここがルーベンスの生誕の地なのです。

ところが、今ではカトリックの教会が圧倒的に多くて、「プロテスタントの教会は二つあるだけです。」とホテルの受付の女性のお返事でした。

 

山岳地帯らしく、駅をでるとかなりな坂を上ることになります。人々も口数少なく上るほどの勾配です。道路の左側にはお店、カフェが並び右側に大きな建物が建っています。

P.P.Rubensの文字!

P.P.Rubensの文字!

坂の途中に開けた場所があり、ある建物の正面にプレートを見つけました。ここは修道院で昔プロテスタントの住居だったとのことです。

そして、またプレートがありました。
ルーベンス生誕の地!ですって!
こんなに容易くめぐり合うことが出来るとは・・・びっくりして感激しました。

ルーベンス生誕の地

ルーベンス生誕の地

アントワープのにぎやかな都から離れて異国の地で、それも、厳しい気候の下に生まれたのだと思うと感慨も一入でした。現在の世界でも宗教難民はありますが、難民とは言わないにしても、少なくとも両親が宗教戦争から逃避しているときに生まれた子、ルーベンス!
ご両親の信仰は・・練達、忍耐、試練、希望・・・パウロの言葉を思い浮かべます。お仲間がいて助け合って生きていたのかしら・・・・カルヴァンの信仰を強く信じる友達が沢山いたのかしら・・・・と往時を偲びます。

 

坂上にお城があります

坂上に昔のお城があります

生誕の地からまだまだ登坂を上ります。upper hillと呼ばれるところにオーベルス シュロスがあり、入り口も小さく見栄えがしませんでしたが、ここが美術館でした。

昔のお城のようです。美術館の中は撮影禁止でした。貴族の館だった部屋、部屋にルーベンスの絵が大小織り交ぜて10枚くらい飾られ展示されていました。撮影禁止とは驚きました。まるで日本の美術館のようです。警備の女性が手持ち無沙汰に行ったり来たりしていました。

 

ルーベンスの部屋(ドイツ語のwikipediaより Oberes_Schloss_(Siegen)#Siegerlandmuseum)

ルーベンスの部屋(ドイツ語のwikipediaより
Oberes_Schloss_(Siegen)#Siegerlandmuseum)

一枚大きな絵がありました。ルーベンスのこんな大作をどのように手に入れたのかと聞いてみましたら、国から貸与だとのことでした。

ルーベンス工房の手によるものが多い印象です。
「キモンとペロ(ローマの慈愛)」も、アムステルダム国立美術館にあるものと似ています。
『ルーベンス展』で出展されていましたね。

「キリスト降架」は、ローマに行く前の作品のようです。

「平和は愛によってもたらされる」は、初めてみる作品です。恐らくイギリスで外交活動をしていた際に描かれたものと思われます。勉強不足で寓話が表す物語を解明できていません。

自画像も、オーストラリア国立美術館にあるものと似ています。

写真撮影が禁止の割にはパンフレットも印刷物もなくて、まだ受け入れ態勢が確立していないようでした。部屋の中にいる方もあまり英語が得意ではないようで、何もお知らせできないのが誠に残念です。

ここジーゲンには1才になるまでしかおらず、10歳まで育ったのはケルンでしたのに、ルーベンスの生誕地として脚光を浴びて観光客が来るようになり、ジーゲンの市としても対応せざるを得なくなった感じです。

美術館には地下があり、昔の鉄鉱石の堀場、作業場を見学することも出来ました。1944年に閉山した町が今、ルーベンスでよみがえろうとしています。ジーゲン市の努力が伝わってきました。

 

Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより、美術館に飾られていたルーベンスの絵画

Caritas Romana 1625 (Siegerland museum in OberenSchlossのサイトより)

キモンとペロ(ローマの慈愛) 1625
(Siegerland museum in OberenSchlossのサイトより)

Die-kreuzabnahme (de.wikipedia.org/wiki/Kreuzabnahme_(Rubens)より

キリスト降架 1600
(de.wikipedia.org/wiki/Kreuzabnahme_(Rubens)より)

Die_Heigen_Giegor,Domitilla,Maurus_und_Papianus 1630-35 (Siegerlandmuseum in OberenSchlossサイトより)

聖グレゴリウスと聖ドミテッラ、聖マウルス、聖パピアヌス 1606-1608
(Siegerlandmuseum in OberenSchlossサイトより)

Der_siegreche_Held_crreicht_die_Gelegenheit_zum_Friedensschluss (Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

平和は愛によってもたらされる 1630-1635
(Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

自画像(Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

自画像 1625  (Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

 

 

Grablegung Christi(Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

キリスト埋葬  デッサン  1639/40(Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

Heilger Hieronymus(Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

聖人ヒエロニムス  訪れた日には飾られていませんでした (Sigerlandmuseum in OberenShlossサイトより)

 

 

ルーベンスの母 マリア・ぺイペリンクス

1608年、11月下旬にアントワープに着いた時、すでに母親は10月19日亡くなっていました。ルーベンスはどんなに悲しい思いをしたでしょうか。
当時は結婚しても男女別姓であったので、母親の名は、マリア・ぺイぺリンクスといいます。
ここで、愛情豊かな賢婦人の鏡のような人であったと思われる感動的なエピソードがあるのでご紹介しましょう。
この事はルーベンスの生まれる前の事件ですし、闇に葬ってもよろしいのですが、19世紀に入って、ある記録が見つかり公に公開されることになりました。
ルーベンスよ、お話してもよろしいでしょうね、

ルーベンスが生まれる前の話です。

後にオランダ初代王となるオラニエ公(オランダ デン・ハーグにある騎馬像)

後に実質のオランダ独立国家初代王となるオラニエ公(デン・ハーグにある騎馬像)

オラニエ公ウィレム一世と言えば、オランダの国民の方々にとっては建国の父で大変尊敬されている方ですが、英雄になるずっと前の若い時、スペインへの対抗として挙兵するための支援集めに東奔西走して、再婚した夫人を構う事が出来ませんでした。というと聞こえはよろしいのですが、婦人であった公妃ザクセン公女アンナはもともと情緒不安定で放埓な所があり、オラニエ公は辟易していたようで内心離婚を考えていたようです。
そのころ、婦人の公妃ザクセン公女アンナは、ドイツのケルンにほど近いジーゲン(独:Siegen)という都市の宮殿におりました。そこで事件が起こります。夫人と後にルーベンスの父となるヤン・ルーベンスの不倫が発覚したのです。ヤン・ルーベンスはプロテスタントのカルヴァン主義者の法律家で、プロテスタント迫害から逃れるために、マリア・ぺイペリンクスとともに夫婦でアントウェルペンからケルンへ逃れてきていたのです。そこで、オラニエ公妃アンナの法律顧問となり、婦人についてジーゲンに引っ越していたようです。

オラニエ公は即座に離縁をいたしました。絶対王政時代、貴族と平民の不義密通は平民の死刑にあたることでした。ヤンが不誠実な人とは思えませんからよほど夫人からの誘惑が強かったのでしょう。とにかくヤンは主君の妃との姦通罪とあって、死刑を宣告され城の牢獄に幽閉されました。

気の毒なのはルーベンス夫人マリアです。失意のどん底にいる夫へ手紙を書いて慰めたり励ましたりしたようです。
「このような苦しみのさなかにあるあなたを責めるなどという醜いことが、どうして私にできるでしょう。長いこと睦み合ってきた私たちの間柄で、私に対するあなたの些細な過ちを許せないほどの憎しみが、いまさら芽生えるはずがありません。・・・・・・あなたのために神に祈っています。子供たちもお父さんのために祈り、心からよろしくと申しております。子供たちはあなたにとても会いたがっています。そして私も・・・。どうかもう二度と「お前にふさわしくない夫」などとおっしゃらないでください。みんな水に流したのですから。」(『岩波 世界の美術 リュベンス』訳 高橋裕子 2003年 より)
また、オラニエ公の実家のナッソー家にも必死に執り成しの助命嘆願書を提出しました。
そのひたむきさが報われ、ナッソー家から特別な恩赦を頂きました。

ヤンはナッソー家から放免され、子供と愛妻のいる家庭へ戻ることが出来ました。夫の過ちを許す妻の愛情を見ると、ルーベンスの母親は一途で決断力のある強い女性だったようです。(ポールも手紙を書くのが得意だったようですが、これは母親の遺伝子を継いでいるのかもしれません。)

この事件の後、1574年に兄フィリップ、1577年にポールが生まれましたのですから、この母親がいなかったら二人の孝行息子は誕生しなかったことになります。
一家は恩赦の後もジーゲンにとどまることを求められていましたが、ほどなくして最終的な赦免を受けケルンへ移りますので、ルーベンスの幼児期の記憶は生まれたジーゲンではなく育ったケルンから始まるのかもしれません。

現在のルーベンス生誕の地(独:Siegen)

現在のルーベンス生誕の地(独:Siegen)

ルーベンスがこの地で生誕したことが書かれてい銅板。

ルーベンスがこの地で生誕したことが書かれている銅板

現在の元宮殿(中は公開されており、絵画などが飾られていた。ルーベンスの作品もあったが、撮影禁止でした)

現在の元宮殿
(中は公開されており、絵画などが飾られていた。ルーベンスの作品もあったが、撮影禁止だった)

宮殿から望むジーゲン(独:Siegen)の街並み

宮殿から望むジーゲン(独:Siegen)の街並み