ルーベンスのイタリア滞在をたどる旅~序

 

ルーベンスも登ったであろうピンチョの丘から望んだローマの風景

バロック絵画の巨匠とよばれるベルギー・フランドルの画家ペーテル・パウル・ルーベンスは1600年から1608年の8年間イタリアに留学しました。23才から31歳までの青春時代と言ってよろしいでしょうか。

最初の訪問地はヴェニツィアだったようです。そして、マントヴァ公国の宮廷画家に召し抱えられます。マントヴァを拠点としてフィレンツェ、ローマ、ジェノヴァ(短期間には、ヴェローナ、ミラノなども挙げられますが)にも滞在しました。

今回私にイタリアのルーベンスを辿る旅に出たいという強い気持ちにさせたのは、アントワープでの彼の作品の原動力、源はイタリーの滞在で培われたものであることが分かったからでした。

天性の力量に加えてルーベンスの若き時代のほとばしるエネルギーによる模写力、精神力を育てた環境。ルネッサンスが花開き、教会建築、絵画などできらめくような反宗教改革の盛りのローマの町で呼吸していたルーベンスの姿を見つけたいと思ったのです。

実際には、サッコ・デ・ローマ(1527年)で痛めつけられたことが分かりましたが、それでもやはり、ローマはルーベンスが魅惑された芸術都市であったのです。
兄フィリップと一緒に暮らした楽しい思い出いっぱいのローマ、ゴンザーガ家の宮廷のあるマントヴァは勿論のことフィレンツェ、ジェノヴァで彼の残像と出会えるのでしょうか?

若きルーベンの生きた足跡をどの位辿ることが出来るか不安はありましたが、次の言葉に偶然出会ったことにも後押しされました。

E.H.カー(イギリスの歴史家)
「過去と現在との対話が歴史である。過去に生きた個人が創造し歩み進んだ軌跡を可能な限りたぐり寄せ、それを個人としての自分自身が対話することこそ重要である。」

ということで、ルーベンスがイタリアに旅立った412年後の2018年2月、孫の年と重なる23才の若きルーベンスを追って、私は78歳、ピーターはデル・モンテという弟子をつれていましたが、娘が、旅程管理、カメラマン、力仕事、荷造りを担った秘書として同行してくれました。
ヨーロッパから見ると地図では極東、ルーベンスは日本の存在を知らなかったことでしょう。しかし、そのような遠くから、若きルーベンスに会おうと旅を企てたおばあさんがいたことを知ったらどんなにびっくりするでしょうか。
その旅で見たこと、感じたことを記していこうと思います。