ミラノ駅では大雪の為に遅延する電車の影響がどのくらいあるのか不安でしたが、さして混乱も見られず、旅行者は冷静に、駅構内の放送に耳を傾け出発時刻案内板を眺めて対応していたのが印象にあります。
私達の乗るインターシティ号も15分くらい遅れの出発となりました。
真白い田園風景の広がりを走ったかと思うと一転して、トンネル、またトンネルの山間に入りました。
いくつかを抜けるといつの間にか雨に変わっっていて、列車は長い下り坂を懸命に下って行きました。
イタリアの地形の複雑さは2時間くらいの旅でも十分に経験できます。
ジェノヴァ駅は意外にどこにでもある普通の駅という感じでしたが、駅を出た所にコロンブスの像が高みから誇らしげに私達を出迎えてくれました。
広場を下っていくと、旧市街に出て、まさに中世の都市に潜っていく感じがしました。
街の歴史は、やはり理解の上で重要です。
ジェノヴァは、イタリアの地中海海岸の商業都市として十字軍時代から都市共和国として繁栄はしていたものの、
新興の商人層と旧来の貴族層が、それぞれ対立して内部抗争が激しかったようです。
が、1339年に中産市民が貴族政権を倒して統領(ドージェ)を選出し、共和制を樹立しました。
15世紀に入ってオスマン帝国が地中海東部を支配するようになって東方貿易が衰退したことを受けて、ジェノヴァ商人は盛んにスペイン王室に食い込んで、コロンブスのように大航海時代の先駆けを輩出しました。1516年のジェノヴァ共和国の行動の記録があります。
チュニジアの海岸一帯で海賊並みの蛮行を働いた後、帰還した直後に、この一帯の行政上の責任者であるチュニスの「首長」に使節を送り、次のように言明させました。
「チュニスの港にジェノヴァ船が繋がれていた事実は、それを奪って北アフリカに引航した海賊クルトゴルの行動を、チュニス当局も認めていたという事を示している。もしも、今後ともジェノヴァとの通商関係を続けたいと思うならば、また二度とチュニジアの地中海側が荒らされたくないと思うならば、あなたの統治する全地方から海賊を追放すると確約すべきである。」
首長ブフダは次のことを約束するしかなかった。
第一にジェノヴァ船は襲わないこと。
第二にジェノヴァ共和国の領土であるリグ―リアの海岸地方は襲撃しないこと。
この二つをクルトゴルに伝える約束をしたのでした。
黄金時代の到来です。
街の一角に備えられているエレヴェーターで丘に着くと、見晴らしが素晴らしく、前方は地中海に連なるリグリア海を一望できる港町がひろがり、後ろには緩やかな斜面に大きな家が建っていて、日本でいえばかつての神戸の港町に似たところがあります。
はるか右手の港はクレーンが無数に伸びていて活況ぶりがうかがえました。
というのも、ミラノ、トリノ(車)など北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港は現在でもイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っているのです。
港にはジェノヴァの旗「白地に赤い十字」でひらめいています。
港だけではなく宮殿、美術館、観光地、狭い通りにもよく見かけます。この旗は諸国の海賊、貿易船に怖がられたそうです。
一般にセント・ジョージ・クロスとよばれているイングランド国旗には由来の一節があり、
ジェノヴァの旗に似せた国旗を作り、海上で遠くから見ると、少しでも怖がらせて、危険を回避させようという思いで、旗を創ったと言われています。
さもありなんと感心します。イギリスの国威が弱かった時代のことです。イギリスとは紳士的に交渉があったようです。
児童書物「母を尋ねて三千里」で、少年マルコがこの港から出稼ぎに行った母親を探しにブエノス アイレスへと出港したことを思い出しました。
中世の栄華から衰退していくジェノヴァの市民生活が表現されているこの物語も日本で第2弾としてアニメ化され、少年、少女の心を揺さぶったのでご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
日本人は健気な少年、少女がお好きですね。