ルーベンスが10歳まで過ごしたケルンのペーター教会

シント・ピーター教会(ザンクト・ペーター教会)は、ケルンにある教会です。

父親が埋葬されている、ケルンのSt,Peter教会

父親が埋葬されている、ケルンのSt.Peter教会

ケルン駅のそば、ライン川のほとりに立つケルン大聖堂から徒歩20~30分のところでした。
ルーベンスの父は1587年ケルンで亡くなりこの教会で葬儀が行われました。

ジーゲンから引っ越してきて、ルーベンス一家は、このケルンに10年間住みました。
父親ヤンは赦免されてケルンで有能な法律家として成功していましたから、お屋敷に住むことが出来たようです。なぜなら、後年、フランスの大公妃マリー・ド・メディシスが母国を王である息子ルイ13世に追われた時彼女はこの家に逃避したということですので想像がつきます。

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

 

この教会の近くにあるSTEENENGASSEという通りに面したところにお屋敷があったようで、
通りの名前は今でもありました。
お金持ちのヤーバッハ一族もここに住んでいたようです。

 

 

がらんとした内部のSt,Peter教会

がらんとした内部のSt.Peter教会

教会の外観は特徴がなくてどこから入ってよいのかわからなくて、一角一回りしてしまいました。
表示がないので入っていいものかどうかわからず行ったり来たりしてしまいましたが、ここまで来たのだからと勇気を出して中に一歩入ってびっくり、がらんとしています。家具一つ置いてありません。
でも教会です。ステンドグラスが入っています。

そして、ルーベンスの晩年の傑作が飾られていました。

 

 

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図 1636年

 

聖ペテロの十字架の祭壇画
父親のお墓の上にあるルーベンスの守護聖人でもあるペテロの殉教図の祭壇画です。
正面の壁にルーベンスの“ペテロの逆さ十字架”が一枚飾られていました。
守衛ではなく教会関係の方と思しき方が一人いて説明を受けました。
確かにルーベンスの絵だということ、現在この建物は日曜日にはここに集まり椅子を並べて教会となるのですが、週日は画廊になったり貸会堂になっているということでした。
12世紀には、ロメネスク様式の教会が建てられていましたが、第二次世界大戦でほぼ完全に破壊されたようで、現在の建物は戦後再建されたもののようです。写真でご覧になるとお分かりですが全く殺風景な教会内部でした。現実をぐっとひきよせられドイツの国の宗教感を見た気がしました。そのような中で、よくぞルーベンスの絵が残っていたものです。

ルーベンスはケルンのペーター教会に祭壇画をと、商業と金融業を営むヤーバッハ家から描くことを依頼されました。

ルーベンスは1578年から1589年までケルンに幼少期を過ごしましたから、父親との思い出が蘇ってきたことでしょう。そして、一度もここに帰ることがなかったことも。

テーマのことは教区司祭とも相談しました。「湖上で救われるペテロ」「ペテロの否認」「天国の鍵の授与」などありましたが、結局ルーベンスに任されたようです。沢山のペテロの逸話から考えてルーベンスはこのテーマを決めました。黄金伝説によるとペテロは逆さに十字架に掛けられることを望んだということです。

ル-ベンス自身も1637年になると持病の通風もひどく、人生を感じる年になっていたのでしょう、殉教の図を描くことに熱中しています。
図像的には、この画はルーベンスがキリスト教と新ストア派哲学の関連を意識していた証拠ということらしいです。
聖ペテロの姿は<セネカの死>のセネカに似ています。セネカはペテロと同時代の人であり、どちらも皇帝ネロの治世に死を宣告されました。
キリスト教に近い人はセネカを隠れキリスト教徒とみなす伝統にルーベンスは親しんでいました。
ルーベンスは内心、この画をヤン・ルーベンスに捧げる墓碑画として描いたのかもしれません。
芸術の可能性の限度と同時に彼の敬虔なる感情の限度に達しての何か“特別なもの”に挑戦したとのことです。

そして、1642年ルーベンスの死の2年後にこの教会に設置されました。