プラド美術館展~ルーベンス『アンドロメダを救うペルセウス』

こちらも、今回のプラド美術館展に出展されていた作品です。

ペーテル・パウル・ルーベンス、ヤーコブ・ヨルダーンス『アンドロメダを救うペルセウス』

ペーテル・パウル・ルーベンス、ヤーコブ・ユルダーンス『アンドロメダを救うペルセウス』(1639-41年)

1639年フェリペ4世が注文したもので、こちらの作品はほとんどルーベンス自身で仕上げていたとのこと。
(ヤーコブ・ヨルダーンス仕上げとあるが・・・)
会場の説明には、絶筆とありました。

こちらは、ギリシャ神話のお話で、
生贄として岩場につながれていたエチオピア王女アンドロメダを救う英雄ペルセウスを描いたものです。

目を奪われるのは、やはり女性の美しさ。
英雄を誇示する男性的なものでは、
長く続く戦争は終わらないということを
ルーベンスは自らの体験から達観していたのではないかと私は思っています。

平和を心から願っていたルーベンス。
この作品を通して、ルーベンスは真・善・美を表現したのではないでしょうか。

プラド美術館展~ルーベンス『聖アンナのいる聖家族』

プラド美術館には、ルーベンスの作品も多く、是非一度訪れなければならない美術館です。
そのプラド美術館の至宝が日本に来ているならば、是が非でも行かなければ。

ということで、遅ればせながら行ってまいりました。
ルーベンスと親交のあったベラスケスはもちろん、ルーベンスが深く関わったスペイン王国の至宝が数多く展示されていました。
解説も丁寧で、じっくり読むことができました。やはり、日本語だと理解が深まります。ルーベンスを知る良い勉強になりました。

3品出展されていた中から、本日は『聖アンナのいる聖家族』(1630年頃)を紹介します。

『聖アンナのいる聖家族』 ペーテル・パウル・ルーベンス

『聖アンナのいる聖家族』
ペーテル・パウル・ルーベンス(1630年頃)

膝の上にイエスを立たせ、右手でしっかり抱えている母マリア。
少し上向きで、母に全幅の信頼を寄せている幼子イエス。
聖母子の後ろには、穏やかな表情のマリアの母、アンナ。
そして、マリアの後ろには、壮年の夫ヨセフ。
人物はほぼ等身大の大きさで、自然な家族像が描かれています。
幸せそうな家族のポートレートのような構図、表情、聖母子の肌の美しさ、肉体の存在感はルーベンスらしい作品だと感じました。

プラド美術館展は、
2018年5月27日(日)まで
国立西洋美術館(上野)にて開催されています。

 

 

アントワープからヴェネツィアへの経路考察

イタリアの最初の訪問地がヴェネツィアであることは確実らしい。1600年5月9日にアントワープを発って、ルーベンスはどのような経路をとったのか。

当時フランドル(フランダース)地方、北ヨーロッパとヴェニスは交易が盛んで海路、陸路とも整備されており、交通路は沢山のルートがあったようだ。しかし、必ずしも平坦ではなくアルプス越えがあるではないか。

アントワープからヴェネツイアへ~徒歩では233時間  by  GoogleMap

因みに、スマホという文明の利器でアントワープからヴェネツィアと検索すると、地図が示してくれる。西暦2018年、徒歩で233時間(9日あまり)、車だと15時間27分と即座に出てきた。吹き出してしまう。24時間ずっと歩いたり、運転することが可能か?
そのことはともかく地図に現れたルートを基に考え出したのが以下の経路である。

ルーベンスはアントワープを出発する。徒歩または馬、乗合馬車でケルンに向かう。ライン川から舟を使うのだが、川上リの舟はどのようなものであったろうか?動力のない時代である。河に沿って馬車で行ったのではないか?ミュンヘンを経てライン川からマイン川に乗り換える。
そしてコブレンツでドナウ川を上りスイスへ入る。イン川に出てまた上り、インスブルックからブレンナー峠へ出る。これはアルプス越えの中では標高が1374mと低く、ゲーテ、ニーチェ、モーツアルトも越えたと言われる有名な峠である。古くローマ兵もこのルートで現在のドイツに入ったようだ。
峠を越えて、イタリアに入ってからは ポー川と出合い、流れと共に下って、ヴェニスへ到着。
あくまでも私の推理であることを付け加えておく。荷物を携えての弟子との二人旅としては、1か月はかかったであろう。

又、ルーベンスはパリへ出たという説がある。
こうなると陸路としてはかなりややこしい。街道筋も変わってくるしアルプス越えの峠も違うルートである。途中の歴史的、文化都市を横切って最も東に存在するヴェネツィアへ直行するとは考えにくい。
そこで、パリからリヨンを経てマルセイユへ出る。そして帆船で、地中海からアドリア海に入りヴェネツィア入港、到着か?
これはとてもすんなりと受け入れられる。
一番納得がいくルートである。

ルーベンスの生い立ち

ここで簡単にペーテル・パウル・ルーベンスの22歳までの歩んできた道―生い立ち―を記しましょう。

1577年6月28日ドイツのジーゲンで生まれ、ケルンで幼少期を過ごした。
両親はプロテスタントであったため、1560年代の反宗教改革カトリックの嵐がアントワープの町を襲い戦争状態になったためにケルンへ逃れたカルヴァン派の今でいう宗教難民であった。外地で生まれたルーベンスにとって 国家間の緊張、小国として生きるための知恵と察知能力を本能として身につけたことになる。ルーベンスは生まれながらにして外交の素質に優れた遺伝子を持っていたといえよう。
亡くなった父親は優秀な法律家で幼い子供たちに当時の上流階級の国際言語イタリア語とラテン語そしてローマの古典文学を教えたという。

10歳の時に父親が亡くなると、母、マリア・ぺーぺリンクスは一家で夫婦の故郷であるアントワープへ帰国する。
アントワープでは母親の希望で教会附属学校でラテン語、ギリシャ語の勉強をし、ここでも古典の名作に出会っている。彼の言語力と読み書きの才能には目を瞠るものがあったらしい。

ルーベンスにイタリア行きを勧めたオットー・ファン・フェーン「最後の晩餐」

画家を志したのは14歳の頃であった。地元の風景画家に弟子入りした。幸運なことに16世紀末アントワープは芸術の中心地として栄え、大物の画家たちがひしめいていた。15歳のころにはファン・ノートルのもとに移った。彼は人物画家であったが、人物画には歴史画や寓意画が含まれるので未来の制作の基礎を学んだことになる。

17歳の時に3人目の師匠オットー・ファン・フェーンの弟子となった。ファン・フェーンは優れた知性の持ち主でアントワープの[ロマニスト]、イタリアで学んだフランドル画家の一群であった。彼らはルネッサンス、ギリシャ、ローマの文学の研究に基づいて、キリスト教的世界観とより世俗的な人間中心的な観点の融和をはかる伝統に裏打ちされた作品を制作した。ルーベンスがこの師の下で修業を積んだのは幸運なことであった。天性の才能があったのであろう。

1598年 親方の資格を取得し、独立して制作が出来、注文も受けることが可能になった。この頃から先輩の例に倣い、ルーベンスの心は画業の総決算としてイタリア・ローマへ行くことに傾いていった。
ついに念願がかない、1600年5月9日旅立ちの日を迎える。

ルーベンスのイタリア滞在をたどる旅~序

 

ルーベンスも登ったであろうピンチョの丘から望んだローマの風景

バロック絵画の巨匠とよばれるベルギー・フランドルの画家ペーテル・パウル・ルーベンスは1600年から1608年の8年間イタリアに留学しました。23才から31歳までの青春時代と言ってよろしいでしょうか。

最初の訪問地はヴェニツィアだったようです。そして、マントヴァ公国の宮廷画家に召し抱えられます。マントヴァを拠点としてフィレンツェ、ローマ、ジェノヴァ(短期間には、ヴェローナ、ミラノなども挙げられますが)にも滞在しました。

今回私にイタリアのルーベンスを辿る旅に出たいという強い気持ちにさせたのは、アントワープでの彼の作品の原動力、源はイタリーの滞在で培われたものであることが分かったからでした。

天性の力量に加えてルーベンスの若き時代のほとばしるエネルギーによる模写力、精神力を育てた環境。ルネッサンスが花開き、教会建築、絵画などできらめくような反宗教改革の盛りのローマの町で呼吸していたルーベンスの姿を見つけたいと思ったのです。

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