今回の旅の目的の一つに、ピッティ宮殿のパラティーナ美術館を訪れることがある。
ここに3枚のルーベンスの画がある。実際には4枚あった。写真を取り損ねたが、三美神の下絵をここで目にすることは予期せぬことだったので得をした気分である。
① プッティの間
「ルーベンスの三美神」・・・1620~1623年頃に描かれた。板に油彩47×34㎝
フランドル絵画をこよなく愛した枢機卿レオポルド・デ・メディチは数多くの素描も含まれていた自身のコレクションの為に、このグリザイユを購入した。
実際、この小品は象牙の壺の装飾用下絵としてルーベンスが描いた作品である。
16世期から17世期にかけて、この技法は北部ヨーロッパに広く流行した。
ウフィッツ美術館より移動された。・・・ピティ美術館公認ガイドブックより
② マルスの間
「戦争の結果(戦争の惨禍ともよばれている)」・・・1637~1638年 カンヴァスに油彩 206×345㎝
トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチの為に制作された。
同じフランドルの画家でメディチ家の宮廷肖像画家であるステルマンスに送った手紙が残っている。(1638年)
ページ数が多いのでここでは割愛するが、この画についての全説明がなされている。
寓意を含んだタイトルの下にこの絵の主題が隠されている。
左端にあるヤヌス神殿の扉は開け放たれ、その前で黒衣のヨーロッパ(女性)が両手を挙げて天を仰いでいる。
中央ではヴィーナスがマルスを引き留めようとし、右手に抜き身を持ったマルスは復讐の女神に引かれ、
戦いに身を投じようとしている。
そして、書物を踏みにじり、芸術の女神と胸に子供を抱いた女性を蹴散らしている。
手紙の中で、ルーベンスはこの絵の意味を祖国を混乱に陥らせた30年戦争と関係づけて説明した。
ヨーロッパの国際情勢が悪化の一途を辿るのを目の前にしているルーベンスの平和への願望の強さが表れている。
苦い現実はルーベンスの脳裏を去らず深い憂慮の種であり続けた。
このキャンバス画はルーベンス晩年の傑作である。・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより
この画は晩年にルーベンスが描いた”幼児虐殺“と対になる作品である。
祭壇画ではないけれども、ルーベンスが平和を心より願って制作した大作であることを知ると決しておろそかにはできない。
③ 「4人の哲学者」・・・1611~1612年 板に油彩、164×139㎝
少し前に亡くなった兄のフィリップ(左下)と師の哲学者ユスト・リピシウス(右から2番目)を記念して制作された。
セネカの頭像(ルーベンスがローマで購入)の横に4本のチューリップがあり、この4人の人生を象徴的に示している。(2本はすでに花が開いている。)
絨毯で覆われたテーブルの上に置かれた書物、背景に見えるパラティーノの丘、会話を交わす人物の身振りと眼差しにより、この群像肖像は17世紀の代表作の一つとなっている。左上の人物はルーベンス自身である。
・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより
④ ヴィーナスの間
「畑から戻る農夫」(1640年頃)板に油彩 121×194㎝
ルーベンスはマリネス近郊の風景を何度も描いているがここでは特に穏やかな自然が描き出され、農夫や動物の姿、木々のフォルムが夕焼けの金色に輝く光の中に浮かんでいる。
この絵はリシュリュー公が所有していたが、ハプスブルグ家によって購入され、ロレーヌ家のピエトロ・レオポルドが新しいトスカーナ大公となった1756年、彼と共にフィレンツェに運ばれた。・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより
私はマリネスという場所の名前が腑に落ちなかったが「メヘレン」の地名はイタリア語ではこうなるのかも知れない。
絵の左方の遠くに見えるのがメヘレンの聖ロンバウト大聖堂と断定できるようである。
ルーベンスは亡くなる前の10年をアントワープの近郊の古い荘園ステーンを買い取りそこで暮らしていた。このステーンの荘園そのものの風景画を随分多く描いている。
その他にも、いくつかの肖像画があった。
この美術館にはラファエッロの作品が数多くみられるのだが、とりわけ“聖母子”“聖母子と子どもの洗礼者ヨハネ”はただただ美しい。
言葉はこれ以上出てこない。