アントウェルペン ルーベンスが眠る聖ヤコブ教会『聖人に囲まれた聖母』

聖ヤコブ教会(Sint-Jacobs Kerk)は、ルーベンスのお墓のある教会です。

歴史:北ヨーロッパからスペインのサンチアゴ・デラ・コンポステラ(弟子、ヤコブの墓がある)へ詣でに行く巡礼者のために、途中の宿としてスタートしました。町をかこむ城壁の外に建てられ、1415年、ゲストハウスに教会を付随し、聖ヤコブ教会となりました。

現在でも主に徒歩の巡礼者が旅の祝福を求めてここを訪れます。
一般に、かれらは首の周りにムール貝の貝殻を巡礼の印にかけています。

教区の教会になって1476年、ブラバントゴシックスタイルの大きな教会の建造に着手しました。強固な柱が支える堅固さと装飾的要素のステンドグラスの柔らかい一致を旨としました。大変大きな教会です。

24もの祭壇があります。150メートルの塔はアントワープの町に投影しています。ルーベンスの家から近くここに、妻のフールマン家の礼拝堂がありました。

聖ヤコブ教会主祭壇
主祭壇

1566年のイコノクラストを受け、1581年カルヴィン主義に教会は変わった時もありましたが、ゴシックの芸術品はかろうじて免れることが出来ました。教会がカトリックに戻った時が再生の時でした。その後18世紀フランスの進軍の時も破壊は免れました。多くの芸術品が美術室に収められています。




大々的に修復工事をしていました



現在古い方の教会が改装中で、なんと巨大なクレーン車が堂内に入っていました。

ルーベンスが眠るルーベンス家の礼拝堂



バロックの巨匠、ルーベンスのゴシックスタイルの新しい記念礼拝堂

“ルーベンス家の礼拝堂”があります。ルーベンスの死後5年かけて妻エレーヌが建造しました。

聖人に囲まれた聖母
P.P.Rubens 『聖人に囲まれた聖母』1634

Madonna and Child with Saints

1640年、ルーベンスが死の数日前に墓に飾るよう申し渡したものです。

1634~1640年頃に描かれました。211×195㎝の手ごろな大きさです。

ルーベンスは自身の礼拝堂を希望したようですが、妻は、ルーベンス家の礼拝堂としましたのでその後亡くなった人々も葬られています。ゆえに『聖人に囲まれた聖母』の絵画は祭壇画と受け止めます。

ルーベンスの身の回りの人々を描いたようにも思える

ルーベンス一族の墓を見守り続けているこの祭壇画は聖母マリアとその胸に抱かれる幼子イエスを中心に、聖ヒエロニムスや聖ゲオルギウス、マグダラのマリア、など諸聖人の他、中央にシント・ヤコブス聖堂に収めた寄進者とされる司祭や美しい女性たち数人を配した<聖会話>の図像が用いられています。ルーベンスとその家族を描いた、身内の人々を描いたという解釈はなくなりました。教会のガイドの方は頑なにこう伝えました。礼拝堂内の二人の女性の姿は永遠の生命を表しているということです。

ここに描かれている軍旗を手にした聖ゲオルギウスはルーベンスに似ていません、絵の中央部に跪いているのは高位聖職者もしくは枢機卿であり、幼児キリストがその手を差し出して接吻させています。この人物はルーベンスの父といわれています。ルーベンスがこの絵で具体的に何を意味しているかが最初に究明されなければならないとルーベンスの専門家は言います。何か特別なことを我々に打ち明けようとしていることは明らかなのです、と言っています。

聖ゲオルギウスは王の娘がいけにえになるのを助け、娘はそののちキリスト教に帰依したという逸話がありますが、なぜここに描出されているのでしょうか?もう一人の男性はデジリウス・エラスムスというネーデルランドのロッテルダム出身の人文主義学者ということです。イタリアのトリノ大学で学んでいます。カトリック司祭、神学者、哲学者で1536年没とありますから ルーベンスは尊敬していたのでしょうか?名言に” Your Liberty is your paradise” があります。

聖ゲオルギウスとエラスムスを描いたルーベンスの心情が謎です。

フランダル特有のマリア像



祭壇画の上にマリアが剣を胸に刺している像がありますがこれはマリアの苦しみ、悩みを表すフランドル特有の姿だそうです。

ヨールダンス『ペスト患者のために祈る聖カロルス・ボロメウス』1655年

カロルス・ボロメウス教会にあった、カレンナ家の礼拝堂には、ルーベンスの友人、ヨールダンスが描いた『ペスト患者のために祈るカロルス・ボロメウス司祭』という祭壇画が掲げられていました。




9才のモーツアルトもこの教会でオルガンを弾いたそうです。