1610年 33歳 アントウェルペン ルーベンスの家(ルーベンスハイス美術館)

アントワープのルーベンスの家

ルーベンスの家(2014年9月)2019年に訪れた際は庭園は改修中でした。

個人の美術館と見なされがちですが、現在は市の所有で一般公開されています。

豪邸でありコレクションも見る価値があります。ルーベンスの人柄が分かります。
33才イサベラ・ブラントと結婚して、市の中心部の運河沿いのワッペン通りに広大な屋敷と土地を手にいれました。

ルーベンスはローマに滞在したときに目にした建造物、またジェノヴァに立ち寄った時に商人たちの豪邸に魅せられていたので、マイホームは人任せにしませんでした、彼の夢が完成しているかのようであります。最高の建築への欲望を叶えるだけの彼の富の豊かさに驚かされます。

この家は各国の王侯貴族、芸術家、知識人の評判となり、当時から現在に至るまで観光の名所となりました。私が訪れた日も入場者多数いました。

内部には、当時の調度品が飾られ、当時の様子が伺えます。
絵画や美術品は、ルーベンスの作品や所蔵していたものだそうです。
ルーベンスと弟子たちが名作を生みだしたアトリエ
Barry McGlashan(1974 Aberdeenn)『Rubenshuis』による当時のアトリエの様子
ペーテル・パウル・ルーベンス『アダムとイヴ』1598年頃
ペーテル・パウル・ルーベンス『受胎告知』1610年頃
ペーテル・パウル・ルーベンス『幼児虐待図』
ルーベンスの2番目の妻『イレーヌ・フールマンの肖像画』
ペーテル・パウル・ルーベンス『自画像』
コルネリウス・ファン・デル・ガ―ストの画廊を表現した絵

こちらの絵は、当時の裕福な商人だったコルネリウス・ファン・デル・ガ―ストの画廊の様子を表現した絵です。
この絵の中には、所蔵していたルーベンス、アルブレヒト・デューラー、マサイスなど有名な画家の作品があり、
とても面白い作品です。

訪れた当時、庭は工事中でした。ほかにもたくさん見どころがいっぱいです。
玄関と庭へのアプローチが、ルーベンス自身によるデザインとして残っている部分とのこと。
現在は、360°ビューをオンラインで見られます!

Rubenshuis | Een Spacify 360 virtuele tour

また、STAY HOME対応で館内のデジタルツアーがYou-Tubeで公開されています。
是非ご覧ください。

https://www.youtube-nocookie.com/embed/59xZOy-1H5E

RUBENSHUIS
Wapper9-11 2000 Antwerp
https://www.rubenshuis.be/en

アントウェルペン 聖パウロ(聖パウルス)教会『論争』『キリストの鞭打ち刑』『羊飼いの礼拝』

聖パウロ教会
聖パウロ教会 見学入り口

ドミニコ派の修道僧の教会です。1256年からの古い教会です。
1968年に火事にあったにも関わらず、人々の協力で300年前の芸術品がそのまま残ったとのこと、来会者が多くいました。

ルーベンスが少年のころにこの教会の近所に住んでいたということで毎朝ミサに通ったであろう彼にも大変なじみのある教会でした。
また、司祭のオプホヴィウス(Ophovius)が友人だったようで、ロザリオ連作を二つ返事で承諾するほど思い入れのある教会でした。
こちらには、4枚のルーベンスの絵がありました。

祭壇の『論争』(もしくは『聖体の秘跡についての論議』)は、ルーベンスが1609年に描いています。

ルーベンス『論争』1609
ルーベンス『論争』1609

教父たち、敬虔な神学者たち4人が聖餅について論じています。円柱のある建物の前に集まっています。中央には聖体顕示台のある祭壇が見えます。階段下には法典のような書物が投げ捨てられて議論の迫力が伝わってきます。

ルーベンス『論争』1609年
ルーベンス『論争』 議論の様子の一瞬を切り取ったスナップショットのよう。
絵の中心は、顕示台の上の聖餅。対抗宗教改革的バロックの要素が見られます。

『羊飼いの礼拝』マリアが幼子イエスのおくるみを持ち上げると 光が満ち満ちて皆が驚きます。こちらも1609年の作品です。

ルーベンス『羊飼いの崇拝』
ルーベンス『羊飼いの崇拝』
ルーベンス『羊飼いの崇拝』
ルーベンス『羊飼いの崇拝』

この教会には“ロザリオ連作”として15枚の絵が側廊にかけられています。
左から7番目がルーベンスが描いた『キリストの鞭打ち刑』です。1617年頃の作品らしいです。

ルーベンス『キリストの鞭打ち』
ルーベンス『キリストの鞭打ち刑』1617

『キリストのむち打ち刑』この世にあるキリストの姿を描いた絵の中では至高の作品であると認められているそうです。立体的描写、血の赤、筋肉の肉体美・・・。ルーベンスの専門家フロマンタンが言っています。

他にも、超有名な画家、ヴァン ダイク、ヨルダーンスなど13名の画家が描いていますが、ルーベンスが推薦したということです。

友人だった司祭オプホヴィウスの肖像画や棺の上の彫刻の下絵もルーベンスが描いたとのことでした。

主祭壇の左の柱には“リマの女神”と呼ばれている彫像があります。南米ペルーのリマの港町カヤオを守るマリアの像です。港の象徴の錨が金色に輝いています。ここに至る物語を聞きたいものです。修道僧がこんな遠方まで宣教していた証です。

“リマの女神”と呼ばれるマリア像

教会裏手に回ると、とても大きい教会だったということがわかりました。

聖パウロ教会裏手

アントウェルペン 聖カロルス・ボロメウス教会『聖なる家族の帰還』

聖カロルス・ボロメウス教会は、イエズス会によって1614年から建築を始めて、1621年に完成しました。
もともとは、日本でも有名なフランシスコ・ザビエルの兄弟弟子、イエズス会の創設の立役者イグナティウス・デ・ロヨラの名を取り、聖イグナティウス教会と呼ばれていたようです。

聖カロルス・ボロメウス教会_正面
イエズス会の立派な教会 聖カロルス・ボロメウス教会

このバロック式の教会は、建築当初よりルーベンスの意向が深く取り入れられ、正面のデザインのみならず、塔の最上の装飾、天井画の制作39枚も描かれ、ルーベンスの思い入れもひとしおの教会でした。17世紀にはその美しさに地上の天国と称賛されました。が、惜しくも1718年、落雷にあってそれらの天井画は消失してしまったそうです。とても残念です。

建築当初の絵
消失前の、ルーベンスが建築に関わった当時の内部の様子

1773年、法王の命により解散させられ、オランダを治めたウィリアム・オレンジ公がプロテスタント教会に変更させる意向でしたが、カトリック教会が多額のファンドを募って取り戻したという歴史があり、功労者のカロルス・ボロメウス司祭から名を取ったとのことです。

聖カロルス・ボロメウス教会内部
立派な内部と主祭壇

豪華な祭壇です。

立派な内部と2階の回廊
2階から望む内部 2階にも回廊があり、絵画が飾られている

2017年に、ルーベンスの『聖なる家族の帰還』が、紆余曲折を経て、この教会に戻ってきたということは大ニユースです。

ルーベンス「聖なる家族の帰還」
P.P.Rubens『聖なる家族の帰還』1620年

『聖なる家族の帰還』は美しく修復されていました。この絵はもともと、1620年当時のアントワープ市長のロコックスがこの教会に寄進したものでした。
絵が戻ってきて、ルーベンスも喜んでいることでしょう。やはり、祭壇画は教会で掲げられているのが本来の姿だと思います。

P.P.RUbens 『聖なる家族の帰還』
250年の時を経て戻ってきた『聖家族の帰還』

日本ではあまり有名ではありませんが、とても美しい教会でした。

建物裏も豪華な聖カロルス・ボロメウス教会
建物裏も豪華な聖カルロス・ポロメウス教会 実際にはあまり幅がなかったことがわかる

アントウェルペン ルーベンスが眠る聖ヤコブ教会『聖人に囲まれた聖母』

聖ヤコブ教会(Sint-Jacobs Kerk)は、ルーベンスのお墓のある教会です。

歴史:北ヨーロッパからスペインのサンチアゴ・デラ・コンポステラ(弟子、ヤコブの墓がある)へ詣でに行く巡礼者のために、途中の宿としてスタートしました。町をかこむ城壁の外に建てられ、1415年、ゲストハウスに教会を付随し、聖ヤコブ教会となりました。

現在でも主に徒歩の巡礼者が旅の祝福を求めてここを訪れます。
一般に、かれらは首の周りにムール貝の貝殻を巡礼の印にかけています。

教区の教会になって1476年、ブラバントゴシックスタイルの大きな教会の建造に着手しました。強固な柱が支える堅固さと装飾的要素のステンドグラスの柔らかい一致を旨としました。大変大きな教会です。

24もの祭壇があります。150メートルの塔はアントワープの町に投影しています。ルーベンスの家から近くここに、妻のフールマン家の礼拝堂がありました。

聖ヤコブ教会主祭壇
主祭壇

1566年のイコノクラストを受け、1581年カルヴィン主義に教会は変わった時もありましたが、ゴシックの芸術品はかろうじて免れることが出来ました。教会がカトリックに戻った時が再生の時でした。その後18世紀フランスの進軍の時も破壊は免れました。多くの芸術品が美術室に収められています。




大々的に修復工事をしていました



現在古い方の教会が改装中で、なんと巨大なクレーン車が堂内に入っていました。

ルーベンスが眠るルーベンス家の礼拝堂



バロックの巨匠、ルーベンスのゴシックスタイルの新しい記念礼拝堂

“ルーベンス家の礼拝堂”があります。ルーベンスの死後5年かけて妻エレーヌが建造しました。

聖人に囲まれた聖母
P.P.Rubens 『聖人に囲まれた聖母』1634

Madonna and Child with Saints

1640年、ルーベンスが死の数日前に墓に飾るよう申し渡したものです。

1634~1640年頃に描かれました。211×195㎝の手ごろな大きさです。

ルーベンスは自身の礼拝堂を希望したようですが、妻は、ルーベンス家の礼拝堂としましたのでその後亡くなった人々も葬られています。ゆえに『聖人に囲まれた聖母』の絵画は祭壇画と受け止めます。

ルーベンスの身の回りの人々を描いたようにも思える

ルーベンス一族の墓を見守り続けているこの祭壇画は聖母マリアとその胸に抱かれる幼子イエスを中心に、聖ヒエロニムスや聖ゲオルギウス、マグダラのマリア、など諸聖人の他、中央にシント・ヤコブス聖堂に収めた寄進者とされる司祭や美しい女性たち数人を配した<聖会話>の図像が用いられています。ルーベンスとその家族を描いた、身内の人々を描いたという解釈はなくなりました。教会のガイドの方は頑なにこう伝えました。礼拝堂内の二人の女性の姿は永遠の生命を表しているということです。

ここに描かれている軍旗を手にした聖ゲオルギウスはルーベンスに似ていません、絵の中央部に跪いているのは高位聖職者もしくは枢機卿であり、幼児キリストがその手を差し出して接吻させています。この人物はルーベンスの父といわれています。ルーベンスがこの絵で具体的に何を意味しているかが最初に究明されなければならないとルーベンスの専門家は言います。何か特別なことを我々に打ち明けようとしていることは明らかなのです、と言っています。

聖ゲオルギウスは王の娘がいけにえになるのを助け、娘はそののちキリスト教に帰依したという逸話がありますが、なぜここに描出されているのでしょうか?もう一人の男性はデジリウス・エラスムスというネーデルランドのロッテルダム出身の人文主義学者ということです。イタリアのトリノ大学で学んでいます。カトリック司祭、神学者、哲学者で1536年没とありますから ルーベンスは尊敬していたのでしょうか?名言に” Your Liberty is your paradise” があります。

聖ゲオルギウスとエラスムスを描いたルーベンスの心情が謎です。

フランダル特有のマリア像



祭壇画の上にマリアが剣を胸に刺している像がありますがこれはマリアの苦しみ、悩みを表すフランドル特有の姿だそうです。

ヨールダンス『ペスト患者のために祈る聖カロルス・ボロメウス』1655年

カロルス・ボロメウス教会にあった、カレンナ家の礼拝堂には、ルーベンスの友人、ヨールダンスが描いた『ペスト患者のために祈るカロルス・ボロメウス司祭』という祭壇画が掲げられていました。




9才のモーツアルトもこの教会でオルガンを弾いたそうです。






アントウェルペン 聖母大聖堂『マリア被昇天』

1611年、大聖堂の参事会会員は、新しい大理石主祭壇のために「聖母被昇天」の制作を依頼しました。
聖母マリアが天に召される物語は、聖書に書かれていません。
それは中世に生まれたもので、そのためプロテスタントは拒絶したのでしたが、その拒絶がかえってカトリックのマリア熱に火をつけました。
最初に描いた作品は、大きさが小さかったため却下され、15年たって(1625-1626年)再度製作しました。

聖母大聖堂『マリア被昇天』
聖母大聖堂主祭壇『マリア被昇天』

聖母被昇天は、
布教のために様々な方向に向かった12使徒たちが、マリアの死が近づいた時に マリアの死とその3日後に彼女が墓から蘇り、天使たちに天国に連れていかれるところを目のあたりにした場面が描かれています。

1625年、妻イサベラ・ブラントがペストで病死したこともあって、
ルーベンスは彼女を偲んだのでしょう、ここに登場させています。

聖母被昇天に描かれたイザベラ
聖母被昇天に描かれたイザベラ


人目を惹く赤い衣装をまとい、空になった墓に屈みこんでいる女性がイサベラです。イサベラの死は冷静なルーベンスが感情の一端を露わにしました。悲痛なる手紙を友人に描いています。

「彼女は善良かつ高貴であった。その性質ゆえに彼女は皆から愛され、だれもが彼女の死を悼んだ。それは私を激しい感情でいっぱいにする大きな喪失である。
あらゆる苦悩の唯一の救済は忘却という時間のたまものである。私がいま、探し求めなければならないのは、彼女の助けである。私の心からの悲しみを取り去るのは困難である」

彼女を喪失したことは、ルーベンスにとって、それまでの人生最大の
空虚感を持ったことは、間違いないと思います。

余談ですが‥‥・

聖母大聖堂天井
聖母大聖堂天井

ルーベンスの時代には他の多くの画家がアントワープの大聖堂のために制作していますが 1647年交差塔(教会内で身廊、翼廊、聖歌隊席が交差する部分で八角形の構造です。)のためにコルネリス・スフットが聖母被昇天を描きました。
地上43メートルの高さにあって、聖母マリアが天に向かって召されていく光景が描かれています。高度な技術を要する天井画はあっぱれとしか言いようがないです。
すごい作家がフランドルには居たものです。観客は大いに魅せられます。教会の外から見ると高さ56メートルの交差塔は玉ねぎの形をしている構造です。

コルネリス・スフットによる『聖母被昇天昇天』まるで本当に天に昇っているよう…

聖母マリアは対抗宗教改革の重要な象徴となりました。プロテスタントがマリアの役割を最小化したことの反発もその一因。彼女の役割は人と神の間を執り成すことであり、中世では非常に愛されていました。反宗教改革ではカトリック主義がプロテスタント主義を凌駕するとみなしました。その勝利主義は少なからずマリア像によって表されました。

マリア被昇天の物語は、
布教のために様々な地方へ宣教していった12弟子たちにマリアが最後に会いたいと天使に頼んで、弟子たちが聖地に戻ってきました。
彼らはマリアの死とその3日後に彼女が墓から蘇り、天使たちに天国に連れていかれるところを目の当たりにしました。と、黄金伝説によります。
8月15日が昇天記念日です。

黄金伝説とは…
レゲンダ・アウレアとよばれ、13世紀のジェノヴァの大司教でドミニコ会士、
ヤコブス・ア・ウオラギネの著書(1236、7年頃完成した)キリスト教の聖人伝集、数々の伝説を集めた。中世ヨーロッパにおいて聖書に次いで広く読まれ、文化、芸術に大きな影響をあたえた。

オットー・ファン・フェーン
『最後の晩餐』350cm×247cm



ルーベンスの師 オットー ファン フェーンの作品
“最後の晩餐”1592年に描かれてここに所蔵されています。

聖母大聖堂 祭壇