ルーベンスがイタリアに留学していた頃(1600~1608年)のローマはどんな様子であったのだろうか。
前述の通り、1600年の聖年には、数十万人の巡礼者をローマに集め、カトリック改革の成功を祝した。
ローマは急速に復興し、落ち着きを取り戻した良い時期であった。
フィリップ兄と過ごしたという土地のあたりを歩いていると、驚くことに同じ通りの名前を見つけることができた。
「ストラーダ・デラ・クローチェ」
400年前と変わらず存在していたのである。
北の玄関口ポポロ門をくぐり、ポポロ広場を通ってスペイン広場に向かう途中にその道はある。
若きルーベンスも志高く、気持ちを高ぶらせてこの門を通ったことだろう。
ポポロ広場から、スペイン広場に続くバブイーノ通りを歩く。
高級店が多く、夏には観光客が多い事だろうが、あいにくの天気に人もまばらだった。
スペイン広場に出ようかというところに、
「ストラーダ・デラ・クローチェ」すなわち「クローチェ通り」があった。
通りの角の建物が工事の為足場を組んでおり、通り名をきれいに写真に撮れなかったのは残念。
このあたりに、家を借りて一緒に暮らし、召使いも二人雇っていたそうだ。
この地域は、一帯は当時ローマ市の交通の拠点であった。
当時マントヴァ公国の財政は窮乏状態で、給料も遅れがちだったらしく、
かえってルーベンスは束縛されずにローマでの滞在が長引くことにもとやかく言われなったようだ。
二人の息子がローマで暮らしていけるのは、やはり実家からの仕送りがあったようだ。
賢母の存在が大きかったようである。