ローマ~カピトリーノ美術館

次に、カピトリーノ美術館。

古代ローマの聖地に建つこちらの美術館には、ルーベンスの「ロムルスとレムスの発見」がある。
聖ペテロニア ホールで見ることが出来る。1612~13年頃の作品である。
ロームルスとレムスは、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟で、ローマの建設者。
ローマ市は紀元前753年4月21日にこの双子の兄弟によって建設されたと伝えられている。

ルーベンス『ロムルスとレムス』カピトリーノ美術館

ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』カピトリーノ美術館

 

雌狼と二人の子供達を構想するに際して、当時、ヴァティカンのヴェルヴェデーレの中庭に置かれていた古代彫刻<テヴェレ川>をモティーフに利用した。
教養豊かな枢機卿からの注文である可能性が高い。
それにしてもルーベンスの愛してやまないローマを描く機会を外国人であるフランドル人にいただいた時間は彼にとって至福の時であったろう。

なお、『狼の乳を吸うロムルスとレムスの像』もこちらの美術館にある。

狼の乳を吸うロムルスとレムスの像

狼の乳を吸うロムルスとレムスの像

 

こちらは、『カピトリーノのヴィーナス』と呼ばれている。
紀元前4世紀の複製である。

カピトリーノのヴィーナス

カピトリーノのヴィーナス

また、“勝利の間”に素晴らしく可愛らしい像があった。「Spinario」
少年が足のとげを抜いているブロンズ像である。忘れられない。

とげを抜く少年

とげを抜く少年

 

この美術館には沢山の彫刻、ブロンズ像が集められている上に、距離的にも住居から近いのでルーベンスは足しげく通ったにちがいない。

イタリアの情勢は中世末期には教皇領、ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国‥多数の国、諸侯・都市が分立していた。
その上、ドイツ、フランスなど外国の干渉が加わって国家の統一は程遠かった。
フランス革命後ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ大陸を支配し、イタリアも支配されて一時ミラノが首都になったこともあったたが、ガリバルディが1870年法王領を併合してイタリア統一を成立した。

ローマに遷都、紆余曲折の末バチカン国は、1929年、ラテラーノ条約により独立国として認められた。
イタリアは第2時世界大戦で敗戦し1948年共和制となって現在に至る。
まさに怒涛の歴史である。それでも過去の都市国家の繁栄のおかげで観光都市として誇る一方新しいものつくりを目指している。

荒廃したローマの都市の遺跡の発掘始まったのは実に20世紀に入ってからとのことである。
まだ手つかずの遺跡が目につく。新しい発見がこれからも世界を驚かしてくれるであろう。やはり 芸術の都は甦っている。

「クオ ヴァディス」「聖衣」 「ベン・ハー」「ローマの休日」「山猫」「天使と悪魔」など‥
記憶に残る映画をピックアップしても枚挙にいとまがない。
人々を魅してやまないローマとは別れ難かった。溢れるほどの刺激を頂いた都市である。

イタリアへ旅立つ前に“イタリアへ行く”というと、周囲では決まって“すりに気をつけなさい”と言われた。
コートの下にバッグを掛けると大変不便であったが対応せざるを得なかった。
けれども今回の旅行でイタリアは変わっていたと思った。すりなどの危険を感じることはなかった。
警官が循環しているようでもあった。難民の流入に神経を使っているのかもしれない。また 町にはごみが少なく清潔な印象を持った。
列車の遅延も雪の時でも最大限の努力がなされていた。
旅行者に便利なように知恵が使われていた。
政府と国民が一体となって歴史的観光都市への自覚と使命感を担っているのであろう。
治安がよろしいのであるから何度でも訪れてみたいと思った。

ローマ~「ボルゲーゼ美術館」

ルーベンスの絵を所蔵している美術館を巡った。

ボルゲーゼ美術館は、ボルゲーゼが個人で蒐集した作品があまりに素晴らしいので、
彼の財産を国が購入して1901年創設の秀逸品揃いの美術館である。
鑑賞は2時間と決められていて交代制になっている。
予約必須。荷物も預けての鑑賞である。

第18室にルーベンスの作品が2つある。

ボルゲーゼ美術館 第18窒

ボルゲーゼ美術館 第18窒

まずは「ピエタ」。
1602年、最初のローマ滞在の折に描かれた。
キリストの姿の乳白色の体、マグダラのマリアの肢体がユニークである。
初めてお目にかかった絵である。
ルーベンス展で再会。

『ピエタ』ボルゲーゼ美術館

『ピエタ』ボルゲーゼ美術館

 

すぐ横に、「スザンナと長老たち」
こちらも先日のルーベンス展で再会した。

ルーベンス「スザンナと長老たち」ボルゲーゼ美術館

ルーベンス『スザンナと長老たち』ボルゲーゼ美術館

 

 

第1室にはパオリーナ・ボナパルテの横たわる大理石像、ただただ美しい!

「パオリーナ・ボナパルテ像」

「パオリーナ・ボナパルテ像」

 

第2室ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「ダビデ」(1623~1624年)
人気のある作品で大変にぎわっていた。作者の意図する角度があるのでこれを欠かしてはならない。

「ダビデ像」ボルゲーゼ美術館

「ダビデ像」ボルゲーゼ美術館

 

ベルニーニの彫刻を多分ルーベンスは見る機会がなかったと思われるが
神話を劇的に表現する彫刻作品の数々を見ていたらどんなに魅了されたであろうか。
何かルーベンスと一致するものが流れている、時代性を感じた。
特に貞潔なニンフ、ダフネの月桂樹への変身と
空しくそのあとを追う光の神アポロンの姿の造形(1622~1624年)の迫力、と果たしない愛情の哀しさを感じさせる作品である。

ベルニーニ「アポロンとダフネ」ボルゲーゼ美術館

ベルニーニ「アポロンとダフネ」ボルゲーゼ美術館

 

そして、第20室 ティツィア―ノ、「聖愛と俗愛」(1514)も決して見逃してはいけない。

ティツィアーノ「聖愛と俗愛」

ティツィアーノ「聖愛と俗愛」

 

この他にも、素晴らしいコレクションが多く、是非多くの方々に訪れてほしい。

 

母に宛てたローマからの手紙~その2

母上、

いま、フィリップ兄さんと一緒に暮らすことができました。
スペイン広場に近いストラーダ デ・ラ クローチェに快適な一軒家です。
これも母上の援助のおかげと深く感謝いたします。

この頃は ゴンザーガ家の財政もかなり苦しいらしく私へのお給金も滞りがちなのです。
そのことは私には都合の良いことでもあるのです。
私を縛り付けず自由にローマにいることを暗黙の裡に許してくださっているからです。

ボルゲーゼ枢機卿、ジェノヴァ出身のジャコモ・セッラ僧正というような政治力もお金もある偉い方々にお会いして、
美術品のコレクションを拝見できることはローマにいなくては出来ないことです。
感激しております。

ポールより、     1605年

多くの芸術家のパトロンであったボルゲーゼ枢機卿の別荘がボルゲーゼ美術館として多くのコレクションを展示

多くの芸術家のパトロンであったボルゲーゼ枢機卿の別荘。現在はボルゲーゼ美術館として多くのコレクションを展示。

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

母に宛てたローマからの手紙~その1

母上、ご無沙汰をして申し訳ございません。お元気のことでしょう。

私は今、待望のローマに来ております。
ヴィンチェンツォ公のお計らいで ローマで作品の模写の勉強をしています。
父上もここで勉強したと思うと感慨深いものがあります。

古代彫刻にも驚かされますが歴史上の人物が大変身近に感じられることにもびっくりしております。

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

例えば 聖書に出てくる残虐なネロ皇帝です。
彼は皇帝ですから広大な土地を所有し、大御殿に住んでいたことが目で見て分かります。

コロッセオ

コロッセオ都市計画を企画するため、ローマの街に大火を起させ、それをキリスト教徒のせいにして迫害しました。

コロッセオはエルサレムから2万人のキリスト教徒を奴隷として連れてきて2年間で建造されたと聞きました。
そのコロッセオはキリスト教徒の迫害の場所であったり、戦車の競争をしたり、ライオンの餌食になるキリスト教徒の場所だったようです。
そのころに生きていなくてよかったと思います。

 

ヴァチカンにある古代彫刻

ヴァチカンにある古代彫刻

ローマには古代ギリシャの美術品がたくさん来ています。
今はオスマントルコに支配されているので、アテネにも行けませんのでここで見られるのは幸いです。
彫刻像が物語になっていて動きがあり、迫力があるのです。
一生懸命模写をしています。縦、横、斜め、上、後ろからとあらゆる方向から描くことをしています。
いくら紙があっても足りないくらいです。楽しくて仕方ありません、

母上もどうぞお体気を付けてください、

あなたのポールより、
1601年秋

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

ローマ~ストラーダ・デラ・クローチェ

ルーベンスがイタリアに留学していた頃(1600~1608年)のローマはどんな様子であったのだろうか。

前述の通り、1600年の聖年には、数十万人の巡礼者をローマに集め、カトリック改革の成功を祝した。
ローマは急速に復興し、落ち着きを取り戻した良い時期であった。

フィリップ兄と過ごしたという土地のあたりを歩いていると、驚くことに同じ通りの名前を見つけることができた。

「ストラーダ・デラ・クローチェ」

400年前と変わらず存在していたのである。

北の玄関口ポポロ門をくぐり、ポポロ広場を通ってスペイン広場に向かう途中にその道はある。

 

北の玄関口ポポロ門 ルーベンスも通ったことだろう

北の玄関口ポポロ門。外側から市内を望む。外側のこの建物はミケランジェロによって、1565年に建てられた。正面の4組の円柱は旧サン・ピエトロ大聖堂から移設されたものとのこと。

若きルーベンスも志高く、気持ちを高ぶらせてこの門を通ったことだろう。

ポポロ広場から、スペイン広場に続くバブイーノ通りを歩く。
高級店が多く、夏には観光客が多い事だろうが、あいにくの天気に人もまばらだった。

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

スペイン広場に出ようかというところに、
「ストラーダ・デラ・クローチェ」すなわち「クローチェ通り」があった。
通りの角の建物が工事の為足場を組んでおり、通り名をきれいに写真に撮れなかったのは残念。

クローチェ通り入り口

クローチェ通り入り口

足場が組まれていた・・・

足場が組まれていた・・・

 

このあたりに、家を借りて一緒に暮らし、召使いも二人雇っていたそうだ。

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

この地域は、一帯は当時ローマ市の交通の拠点であった。

 

当時マントヴァ公国の財政は窮乏状態で、給料も遅れがちだったらしく、
かえってルーベンスは束縛されずにローマでの滞在が長引くことにもとやかく言われなったようだ。

二人の息子がローマで暮らしていけるのは、やはり実家からの仕送りがあったようだ。
賢母の存在が大きかったようである。

スペイン広場

すぐ近くにスペイン広場がある