1609年 32歳 イザベラ・ブラントと結婚『スイカズラの木陰』

1609年10月5日にイサべラ・ブラントという女性と結婚し、ルーベンスの母の眠る教会で式を挙げました。

彼女の父は、市でも指折りの富豪でかつ教養人でありました。
イサベラはルーベンスより14歳年下でしたが、誠実で聡明、心温かな女性で、
お気に入りの伴侶でありました。

『スイカズラの木陰』という新婚夫妻の肖像画があります。
新婚夫婦の肖像画としてため息が出るほどの画です。
スイカズラは永遠の愛を表わすものだそうで幸福感が伝わってきます。

ルーベンス『スイカズラの木陰』ミュンヘン・アルテピナコテーク所蔵

ルーベンス『スイカズラの木陰』ミュンヘン・アルテピナコテーク所蔵

 

ヴァッペル運河沿いに広大な邸宅を購入して邸宅の大改造を始めました。
目まぐるしくも精力的な人生の始まりです

ルーベンスのパトロンたち

1609年9月、夫婦揃って美術愛好家であるスペイン領の統治者であるアブレヒト大公夫妻から、宮廷画家になることを望まれ、破格の条件でお受けしました。
特別に、宮廷のあるブルッセルではなくアントワープに住むことを許されています。夫妻は、最後まで芸術を支援してくれました。

ルーベンス『アルブレヒト大公』『イザベラ大公妃』ニコラス・ロコックス邸

ルーベンス『アルブレヒト大公』『イザベラ大公妃』ニコラス・ロコックス邸

 

また、市庁舎の玄関を飾る作品を注文してくれた、アントワープ市長ニコラス・ロコックスとは、家同士も近く、昵懇の間柄で、ルーベンスは、この時期に『サムソンとデリラ』も注文に応じて制作しています。
旧約聖書の有名な個所です。
イスラエルの民をペリシテ人などの他部族から救った怪力の持ち主サムソンが、自らの強さが髪の毛にあることを、ペリシテ人の娼婦デリラに明かしてしまったことから、彼を眠らせて髪を切ってしまい、神通力をそいでしまうお話です。
(旧約聖書 士師記16章)に書かれています。
敵のペリシテ人の娼婦デリラも妖艶な美しさを漂わせています。

ルーベンス『サムソンとデリラ』ロンドン ナショナルギャラリー 1609年

ルーベンス『サムソンとデリラ』ロンドン ナショナルギャラリー 1609年

この画は個人用で市長の家の居間に飾られていましたが、今はロンドンのナショナル ギャラリーで見ることが出来ます。

また、「フランダースの犬」で有名な、アントワープ(アントウェルペン)の聖母大聖堂の祭壇画『キリスト降架』もロコックスからの依頼で制作されました。(後に記述します)

ちなみに、ニコラス・ロコックス邸は、現在、スナイデルス邸と合体し、スナイデルス・ロコックス邸として公開されています。
ルーベンス以外にも、ファン・ダイク、ヨールダンス、ブリューゲルなどの作品も展示されており、17世紀当時の邸宅の様子を知ることができます。

入り口がこじんまりとしたニコラス・ロコックス邸入り口

入り口がこじんまりとしたスナイデルス・ロコックス邸入り口

ロコックス邸宅内部

ロコックス邸宅内部

タブレットが貸与され、展示品の解説が表示されます

タブレットが貸与され、展示品の解説が表示されます

ルーベンス『Maria in aanbidding voor hetslapende Jezuskind』スナイデルス・ロコックス邸

ルーベンス『Maria in aanbidding voor hetslapende Jezuskind』スナイデルス・ロコックス邸

 

 

1609年 32歳 アントウェルペン市庁舎玄関を飾る『東方三博士の訪問』

話をルーベンスがイタリアからアントワープ(アントウェルペン)に帰った時代に戻します。

 

1609年(32歳)
*  ルーベンスは母親を失った悲しみのうちに1608年を送り1609年を迎えます。

この年初めにスペインとオランダの戦争を12年停止する宣言が出て、それまで疲弊していたアントワープ(アントウェルペン)の街もにぎわい始めました。

アントワープ(アントウェルペン)はスヘルデ川を遡る所にある港町ですので、北オランダにスヘルデ川の航行を閉ざされると商業は出来なくなります。解除により多くの人々も商売に戻ってきました。

ホテルの部屋に飾られていた額絵から当時の様子が伺える

ホテルの部屋に飾られていた額絵から当時の様子が伺える

 

その上、ルーベンスにとって嬉しいニュースが入ります。
1563年に終わったトリエント公会議でカトリックの正統性が確認され、新しい宗教的情熱に燃えたイエズス会などの新教団の勢いが増し、アントワープ(アントウェルペン)にもおしよせました。
プロテスタントが偶像崇拝として排撃したキリスト教の像、彫刻、祭壇画など宗教美術が再認識されたおかげで、アントワープ(アントウェルペン)の破壊された教会の立て替え建築、修理は勿論、教会内を修飾する聖人の彫刻、祭壇画の注文がブームとなり舞い込むようになりました。

その中でルーベンスは指導的な役割を果たすことになります。いよいよルーベンスの出番です。

 

残念ながら、修復中でした

残念ながら、市庁舎は修復中でした

* 1609年早々にアントワープ市長のニコラース・ロコックスから市庁舎の大会議室(スターテン カーメル)に『東方3博士の訪問』いわゆるマギ(3賢王の礼拝)の絵画を描くことを依頼されました。
大変名誉な仕事でした。なにしろ、この部屋でスペインとオランダの間で12年間の休戦条約が締結されるのですから・お祝いです。
(マタイによる福音書2章9節~11節)

主イエスの生誕のお祝いにベツレヘムを訪れた賢人たちの主題は、「平和の君」であるイエスと平和条約締結のための使節たちを迎える主題と合致するところがありました。

暗い馬小屋ですが光に照らし出される聖母子は華やかな清らかな姿で描かれています。
多くの客人を迎える絵画に相応しく美しくて大変好評でしたので、数年するとこの画はスペイン王に献上されました。
今はプラド美術館で見ることが出来ます。

P.P.Rubens「東方三博士の訪問」1609年、1628-29年 プラド美術館

 

ケルン~ヴァルラフ・リヒャルツ美術館

 

とにかく大きなケルン大聖堂

とにかく大きなケルン大聖堂は駅前

ケルン ライン川にかかるホーエンツォレルン橋 遠くにケルン大聖堂

ライン川にかかるホーエンツォレルン橋
正面にケルン大聖堂、左手にケルンフィルのコンサートホール

 

 

 

 

 

ベルギーからドイツに入ると国の違いが感じられます。ベルギーが“柔”とするとドイツは良い表現が見つからないが“硬水”といってよいでしょうか、我が国日本と似ているのです。
ライン川のほとり、大聖堂の裏に格式の高いコンサートホールがあるのですが、その敷地の横に歩道がありライン川河岸のほとりに下る道が続いています。ライン川の畔で散策を楽しむので多くの観光客が行き来しています。その敷地を横切ると近道になるので多くの人が敷地に入ろうとしますが、おっとこどっこい!警備員が4,5人もいて入らないよう注意するのです!
こんなことを我が国でも経験しますでしょう?官のすることはどこでも同じようです。

さて、ケルンにある美術館をご紹介しましょう。Wallraf-Richartz Museumといいます。大聖堂から歩いて10分ほどのところにあります。
美術館を訪れた日は日曜日でもあり、同時に開催されている「アメリカの原点」の展覧会に多くの人が足を運んで大そうにぎわっていました。
目的が違うこちらの方はゆっくり鑑賞できました。

3階にバロックの作品が集まっています

2階部分にバロックの作品が集まっています

 

バロックの作品がある2階に入って正面に飾られているのが、ルーベンス!

ルーベンス「ユノとアルゴス」1611年

ルーベンス「ユノとアルゴス」1611年

 

ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年

ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年
ケルンには古くからの修道院がいくつか存在していましたが アントワープのカプチン派の修道会は勢いがありました。ライン川地方の都会、ケルンにカプチン派修道院を建てて、聖フランシスの祭壇画をルーベンスに依頼しました。1616年10月奉献しました。
聖フランシスにまつわる書物が中世から存在し、CONSIDERAZIONIと呼ばれていました。ルーベンスはその中から聖フランシスの逸話をもとに描きました。

ルーベンス「ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年

ルーベンス「ルーベンス「聖フランシスのスチグマータ(聖痕)」1616年の右上部分

ある夜フランシスは断食して祈りを求めて岩山へ入っていきました。
突然雲が分かれて空から天使の光がさしてきました。目を覆うほどのまぶしさでした。天使になったキリストが現れていました。
びっくりした聖フランシスは、天使キリストと何か言葉を交わしながら、目と目を見つめあい、体と体を出合わしている、救い主の十字架の傷跡が聖フランシスにも残った瞬間です。聖フランシスは十字架の苦しみを共に受けたい燃えるような願望がありました。胸にも両手にも聖痕を見ます。

ルーベンスは聖フランシスをウンブリアのやせた体つきではなく、フランドル人の立派な体格に描きました。貧困のイメージはありません。
ルーベンスの祭壇画は新しくやってきたカプチン派の力強い宣伝になりました。

 

この美術館にはルーベンスの“マントバの仲間たち”もありました。

ルーベンス「マントヴァの仲間たち」

ルーベンス「マントヴァの仲間たち」

ルーベンスの奥に、兄フィリップ、右にはルピシウス教授が描かれています。左には、マントヴァの風景でしょうか。ルーベンスにとって大切な思い出なのでしょう。

ルーベンスの奥に、兄フィリップ、右にはルピシウス教授が描かれています。左には、マントヴァの風景でしょうか。ルーベンスにとって、大切な思い出なのでしょう。

 

有名な「聖家族」1634年もありました。

ルーベンス「聖家族」1634年

ルーベンス「聖家族」1634年

 

展示室の様子~正面がルーベンス

展示室の様子~正面がルーベンス

 

若きルーベンスと並んで、レンブラントもありました

若きルーベンスと並んで、レンブラントもありました

 

ケルン大聖堂からほど近いですし、ほかにも、ルノワール、モネ、ゴッホ、ムンクなど名画がそろっていますので、ケルンに行かれた際には是非立ち寄ってみてください。

Wallraf-Richartz Museum
https://www.wallraf.museum/
月曜日 休館

 

奥に見えるのが大聖堂。美術館へはこの工事中の横を通り抜けました。

奥に見えるのが大聖堂。美術館へはこの工事中の横を通り抜けました。

 

ルーベンスが10歳まで過ごしたケルンのペーター教会

シント・ピーター教会(ザンクト・ペーター教会)は、ケルンにある教会です。

父親が埋葬されている、ケルンのSt,Peter教会

父親が埋葬されている、ケルンのSt.Peter教会

ケルン駅のそば、ライン川のほとりに立つケルン大聖堂から徒歩20~30分のところでした。
ルーベンスの父は1587年ケルンで亡くなりこの教会で葬儀が行われました。

ジーゲンから引っ越してきて、ルーベンス一家は、このケルンに10年間住みました。
父親ヤンは赦免されてケルンで有能な法律家として成功していましたから、お屋敷に住むことが出来たようです。なぜなら、後年、フランスの大公妃マリー・ド・メディシスが母国を王である息子ルイ13世に追われた時彼女はこの家に逃避したということですので想像がつきます。

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

ルーベンス一家が住んだSternengasse通りの表示

 

この教会の近くにあるSTEENENGASSEという通りに面したところにお屋敷があったようで、
通りの名前は今でもありました。
お金持ちのヤーバッハ一族もここに住んでいたようです。

 

 

がらんとした内部のSt,Peter教会

がらんとした内部のSt.Peter教会

教会の外観は特徴がなくてどこから入ってよいのかわからなくて、一角一回りしてしまいました。
表示がないので入っていいものかどうかわからず行ったり来たりしてしまいましたが、ここまで来たのだからと勇気を出して中に一歩入ってびっくり、がらんとしています。家具一つ置いてありません。
でも教会です。ステンドグラスが入っています。

そして、ルーベンスの晩年の傑作が飾られていました。

 

 

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図

P.P.Rubens 聖ペテロの殉教図 1636年

 

聖ペテロの十字架の祭壇画
父親のお墓の上にあるルーベンスの守護聖人でもあるペテロの殉教図の祭壇画です。
正面の壁にルーベンスの“ペテロの逆さ十字架”が一枚飾られていました。
守衛ではなく教会関係の方と思しき方が一人いて説明を受けました。
確かにルーベンスの絵だということ、現在この建物は日曜日にはここに集まり椅子を並べて教会となるのですが、週日は画廊になったり貸会堂になっているということでした。
12世紀には、ロメネスク様式の教会が建てられていましたが、第二次世界大戦でほぼ完全に破壊されたようで、現在の建物は戦後再建されたもののようです。写真でご覧になるとお分かりですが全く殺風景な教会内部でした。現実をぐっとひきよせられドイツの国の宗教感を見た気がしました。そのような中で、よくぞルーベンスの絵が残っていたものです。

ルーベンスはケルンのペーター教会に祭壇画をと、商業と金融業を営むヤーバッハ家から描くことを依頼されました。

ルーベンスは1578年から1589年までケルンに幼少期を過ごしましたから、父親との思い出が蘇ってきたことでしょう。そして、一度もここに帰ることがなかったことも。

テーマのことは教区司祭とも相談しました。「湖上で救われるペテロ」「ペテロの否認」「天国の鍵の授与」などありましたが、結局ルーベンスに任されたようです。沢山のペテロの逸話から考えてルーベンスはこのテーマを決めました。黄金伝説によるとペテロは逆さに十字架に掛けられることを望んだということです。

ル-ベンス自身も1637年になると持病の通風もひどく、人生を感じる年になっていたのでしょう、殉教の図を描くことに熱中しています。
図像的には、この画はルーベンスがキリスト教と新ストア派哲学の関連を意識していた証拠ということらしいです。
聖ペテロの姿は<セネカの死>のセネカに似ています。セネカはペテロと同時代の人であり、どちらも皇帝ネロの治世に死を宣告されました。
キリスト教に近い人はセネカを隠れキリスト教徒とみなす伝統にルーベンスは親しんでいました。
ルーベンスは内心、この画をヤン・ルーベンスに捧げる墓碑画として描いたのかもしれません。
芸術の可能性の限度と同時に彼の敬虔なる感情の限度に達しての何か“特別なもの”に挑戦したとのことです。

そして、1642年ルーベンスの死の2年後にこの教会に設置されました。