マントヴァ テ離宮

テ離宮

離宮からみた前庭

テツィアーノによる『ジュリオ・ロマーノ』

テツィアーノによる『ジュリオ・ロマーノ』

テ離宮は、ゴンザーガのフェデリコⅡ世の夏の離宮として、ジュリオ・ロマーノが1525~1535年に建て、装飾を弟子たちと共に施した。

古代ローマの時代に霊感を受けていて、ラファエロ、ミケランジェロをが統合されたルネッサンス建築として貴重に保存されている。

玄関を入ると周り廊下の壁には歴代の歴史家、哲学者、作家の賞賛の言葉が述べられている。

テ美術館「紋章の間」

テ美術館「紋章の間」

紋章の間、太陽と月の間といった小部屋、

美しく堂々としていてしかも品のあるマントヴァの誇りの馬を描いた「馬の間」、

テ美術館「馬の間」

テ美術館「馬の間」

プシュケとエロスの結婚を祝いオリンポスの様子を描いた「プシュケの間」、

テ美術館「プシュケの間」

テ美術館「プシュケの間」

オリンポスの神々と地上の神両方が描かれている「オリンポス山の神々」、

テ美術館「オリンポスの神々」

テ美術館「オリンポスの神々」

「鷲の間」イーグル(勇気と権威の象徴)、「ローマ兵の行列」「皇帝の部屋」と続き、

そして、巨人とタイタン族がオリンポスの神々に打ち倒されていく「巨人の間」

テ美術館「巨人の間」天井

テ美術館「巨人の間」天井

「神々のバンケットの間」これはカール5世がフェデリコ2世にマントヴァ公国を授けるため1530年春に訪れた記念の間。

部屋から部屋へとつながったり、また美しい天井画の渡り廊下を歩いたりして進むと様々な世界が飛びだしてくる。内容も歴史的な現実な事柄から、想像の世界へと飛翔する壮大なドラマがある。私は巨大な空間に精を出して描ききる多くの画家たちの魂に引きつけられたのかもしれない。
ここに出会えたことに感謝して 画家たちに、“ありがとう”と伝えたかった。
フレスコ画の修正画に打ち込んでくださる方々の情熱にも感謝したい。

そしてマントヴァ市に幸あれ!

ルーベンスはマンテーニャの構図の発想にどんなに影響を受けたであろうか。
じっくりと訪れては時間を忘れて絵の中に没頭し、そして、ルーベンス自身の創造力を産み出していく糧にしたであろう。

大学の同級生という事だが、今や押しも押されぬイタリア歴史の大家で数多の著書を出しておられる塩野七生さん。彼女の初版著書に“ルネサンスの女たち”がある。その第1章にイザベッラ・デステが登場する。当時の貴族社会のマントヴァ公爵夫人が実に生き生きと描かれている。

帰国後 日本との関わり合いでこんな発見もした!!
天正遣欧少年使節が、安土城を描いた屏風をローマ法王に献上する途中、マントヴァを訪問したとのこと。それがご縁で安土町と姉妹都市を締結したのだが、その後、市町村合併で安土町が近江八幡市に入ったので現在、近江八幡市が継承しているとのこと!どうぞご縁を大切にと願う。

こちらも安土桃山文化が開いたまさにその場所であるので遜色はない。安土城は織田信長が天正4年(1576年)から3年かけて完成した5層7重の天守閣を持つ城であったが、今は消滅して、石垣、礎石が往時を偲ばせてくれるが、その豪華さは歴史家が証明してくれる。
狩野永徳の絵画が飾られたであろうに。

マントヴァは湖に三方囲まれた街でありながら平野(ロンバルディア)が広が穀倉地帯である、一方、近江八幡も琵琶湖に隣接していて田畑が広がっている。信長を総大将として京都との間を駆け巡った戦場でもあったが豊臣秀吉、江戸時代以降は豪商が巨額の富を築いた煌びやかな歴史を誇る町である。近江商人の故郷となり土蔵、白壁の残る町並みが美しい。
西洋と東洋の美意識のちがいにも驚かされるであろう。
自然が豊かな寛げる観光地として、マントヴァと競って行って欲しい。

折角マントヴァのように美しい町と姉妹都市になっているのですから、文化交流の為にお互いに提携宿泊所を設けていただければ、日本からの、またイタリアからの旅行者も多く訪れるでしょう。

ヴェネツィア

 

ヴェネツィアはヴェネツィア共和国の中心地であり、地中海の交易で莫大な富を得て15世紀に全盛期であったとのことだが、当時のままの姿と変わっていないことを観光案内で読んだ。

リアルト橋からの景色

リアルト橋からの景色

リアルト橋は今でも観光の名所であり、カメラポイントであり特にアルノ川の夕景は美しい。立ち並ぶ売店にはカメオは見かけることが少なく、お土産にも流行り廃りがあって、時代性を感じる。

すでにここでは13世紀に、海外への定期商船の航路があったようだ。
遠くコンスタンチン―ブルから黒海へ行く船。キプロス、シリア、パレスチナへの航路、エジプトのアレキサンドリア航路、そして西はロンドンを経てフランドル航路があったとのこと。まさに経済世界の一大中心地であった。

ヴェネツィアで最も古いといわれるサン ジャコモ ディ リアルト教会

ヴェネツィアで最も古いといわれるサン ジャコモ ディ リアルト教会

栄えた第一の理由は、信教の自由都市であったこと。
すなわち、貿易の相手の国、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ギリシャ正教、プロテスタント、エジプトなど商売相手のいかなる宗教とも差別することなく付き合った。
そのおかげで香辛料、銀、顔料、木材、穀物、毛織物、絹織物、奴隷までも高価な商品が取引され商業は拡大されたという事である。まさにヴェネィアはコスモポリタン都市だった。

また、水の怖さを知っている彼らは 神の恩寵を願い、また感謝して多くの教会を建てているが、それはカトリックの法皇に属するものではなくて、修道院、聖人、聖なる遺物を祀り独自の教会に信仰が篤かった。ローマカトリックとは一線を引いていたようだ。

「ヴェネィアは神ならぬ人間の作った最高の街」と言った人がいた。
「ヴェネィアは海と結婚した」という言葉があり、その祝日もある。
水の上に浮かぶロマンチックな雰囲気を伴うが、その裏には集団に頼ることなく、自分で上手に生きようとするバイタリティを感じる。

ドゥ・カーレ宮殿内部

まばゆいばかりに光輝くドゥ・カーレ宮殿内部

ドゥ・カーレ宮殿と呼ばれるドージェの館は官邸であったが、大評議室に描かれた壁画をルーベンスも目にしたであろうか。
まばゆいばかりのルネッサンス・ヴェネィア派の画家たちの作品をみて、フランダースから来た若きルーベンスはさぞかし驚いたことであろう。

ティントレット『ヴェネツィア称揚』(1584年)

ティントレット『ヴェネツィア称揚』(1584年)

ルーベンスが影響を受けたといわれるティツィアーノ・ヴェチェッリオによる『祈りを捧げるグリマーニ総督』(1575-1576年頃)

ルーベンスが影響を受けたといわれるティツィアーノ・ヴェチェッリオによる『祈りを捧げるグリマーニ総督』(1575-1576年頃)

ティントレットの
『ヴェネツイア称揚』

ティツイアーノの
『祈りを捧げるグリマーニ総督』

パオロ・ヴェロネーゼの『ヴェネツィア礼賛』

パオロ・ヴェロネーゼ『ヴェネツィア礼賛』(1585年)

パオロ・ヴェロネーゼ『ヴェネツィア礼賛』(1585年)

他にも、まばゆい絵画が豪邸を飾っていた。
一方で、 地下には往時をしのばせて奴隷用の牢獄も備わっており、栄光に隠れた影の部分も知ることができた。
往時をしのぶよい機会となった。

ビザンチン様式のサン・マルコ寺院は、首長ドージェ個人が建てた教会である。
その丸い天井にかかれた黄金のモザイクが燦然と輝いていた。

光り輝くサン・マルコ寺院入り口

光り輝くサン・マルコ寺院入り口

ホテルをチェックアウトするとき ラゲージを運ぶことを依頼した。運河が目の前なので舟で運ぶのかと思っていたのだが・・・

若いポーターが大きなスーツケースを駅まで運んでくれたので、階段もラクチン

若いポーターが大きなスーツケースを駅まで運んでくれたので、階段もラクチン

ホテルの前に運び屋が待っていた。駅までラゲージ一個5ユーロだという。
アルバイト風の青年が二人で荷車に乗せて運んでくれた。かつての東京駅の赤坊さんを思いだし仕事師の有難かったこと!グランデ カナルと小さな運河に架かる橋も軽く超えることが出来た。階段状の橋の下には冷たい冬の鉛色の水面がうねっていた、ふと我が家の東京の目黒川の色と重なった。

サンタルチア駅に到着。
私には映画の思い出がある。キャサリーン・ヘッバーン主演の“旅情”である。
中年のアメリカ女性がヴェネチアに観光に来て、リアルト橋付近の商店主(ロッサナ・ブラッツイ―)としばしの恋が咲くのであるが、別れの時が来る。この男の俳優さんは私の大好きな映画“若草物語”の中のベア先生なのだ。
彼は非常にドイツ的と思っていたのにイタリア人でした! 別れを惜しむクライマックス場面がこの駅なのである。
甘くも美しいメロディーを思い出しながら私もお別れをした。

“I dream of a summer time~~~”

アリべ デルチ ヴェニス

サンタルチア駅

サンタルチア駅

ルーベンスの生い立ち

ここで簡単にペーテル・パウル・ルーベンスの22歳までの歩んできた道―生い立ち―を記しましょう。

1577年6月28日ドイツのジーゲンで生まれ、ケルンで幼少期を過ごした。
両親はプロテスタントであったため、1560年代の反宗教改革カトリックの嵐がアントワープの町を襲い戦争状態になったためにケルンへ逃れたカルヴァン派の今でいう宗教難民であった。外地で生まれたルーベンスにとって 国家間の緊張、小国として生きるための知恵と察知能力を本能として身につけたことになる。ルーベンスは生まれながらにして外交の素質に優れた遺伝子を持っていたといえよう。
亡くなった父親は優秀な法律家で幼い子供たちに当時の上流階級の国際言語イタリア語とラテン語そしてローマの古典文学を教えたという。

10歳の時に父親が亡くなると、母、マリア・ぺーぺリンクスは一家で夫婦の故郷であるアントワープへ帰国する。
アントワープでは母親の希望で教会附属学校でラテン語、ギリシャ語の勉強をし、ここでも古典の名作に出会っている。彼の言語力と読み書きの才能には目を瞠るものがあったらしい。

ルーベンスにイタリア行きを勧めたオットー・ファン・フェーン「最後の晩餐」

画家を志したのは14歳の頃であった。地元の風景画家に弟子入りした。幸運なことに16世紀末アントワープは芸術の中心地として栄え、大物の画家たちがひしめいていた。15歳のころにはファン・ノートルのもとに移った。彼は人物画家であったが、人物画には歴史画や寓意画が含まれるので未来の制作の基礎を学んだことになる。

17歳の時に3人目の師匠オットー・ファン・フェーンの弟子となった。ファン・フェーンは優れた知性の持ち主でアントワープの[ロマニスト]、イタリアで学んだフランドル画家の一群であった。彼らはルネッサンス、ギリシャ、ローマの文学の研究に基づいて、キリスト教的世界観とより世俗的な人間中心的な観点の融和をはかる伝統に裏打ちされた作品を制作した。ルーベンスがこの師の下で修業を積んだのは幸運なことであった。天性の才能があったのであろう。

1598年 親方の資格を取得し、独立して制作が出来、注文も受けることが可能になった。この頃から先輩の例に倣い、ルーベンスの心は画業の総決算としてイタリア・ローマへ行くことに傾いていった。
ついに念願がかない、1600年5月9日旅立ちの日を迎える。