ローマ訪問

遡ること400余年前、1601年の暮れにルーベンスは初めてローマを訪れた。
マントヴァ・ヴィンチェンツォ公から偉大な巨匠たちの作品の模写をするという名目で送り出されたのだ。
1602年4月にマントヴァに帰っているので5か月くらい滞在したという事になる。
その間にルーベンスは初めて古代美術の主要作品にじかに触れることができた。当時古代美術と言えば彫刻に限られていたとのこと。古代彫刻は古代ローマの遺跡の中に在ったり、地中から掘り起こされてはいたが、日の目を見なかったが、ルネッサンス期に入って人々の関心が高まっていった。
ローマは古典研究と古代遺物の発見の中心地となった。芸術の世界だけではなく、学問の世界でもヨーロッパの上流社会の人々にとって、何が何でもローマで学ぶことがその道の総仕上げと思われステイタスになっていたようだ。因みにルーベンスの父親もローマで法律の勉強をしていた。

『ラオコーン』像 ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館

『ラオコーン』像
ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館所蔵

若きルーベンスは古代ギリシャ、ローマの彫刻(アフリカの漁師、ラオコーン、女神像など)・・・彫刻に魅了され、熱心に研究し、デッサンを繰り返し、模写に明け暮れたようだ。

後の作品にこれらの模写の姿が多く出て来るが、コピーそのものではなくルーベンスの手による新たな人物が描き出されている。其の上、このころはコピーに対して現代のようには模倣、著作権云々とみなされることはなかった。当時の模写も多くが残っているが、それらの模写をチョークで描くことにより、輪郭線を柔らかくし、ペンよりもずっと巧みに肉体の感触を出すことが出来ることも自ら学んだ。さらに、モデルをいろいろな角度から描ききる意欲と興味に対するエネルギーを、ルーベンスは持っていた。

 

この半年間に、アルブレヒト大公から祭壇画を依頼された。

“聖女ヘレナと真の十字架”(1601年~2年)板に油彩 252×189cm
“愚弄されるキリスト”(1601年~2年)板に油彩 224×130cm

を描いたようだが、今はローマでは見られない。ローマで初めて手掛けた作品なのに・・・今はグラース市立病院礼拝堂にある。

2018年2月、私たちは真冬のさ中、東京を出発してローマに着いた。
荷物が出て来る待ち時間に洗面所を目指すと 壁とドアの色合いが目に留まった。壁は薄緑色、ドアは濃い緑色・・さすがである。ローマの玄関は爽やかであった。
空港からホテルまではお願いしておいたドライバーが待ち受けているので、私達のような女二人の旅行者には安心である。年間どの位個人客が訪れるのであろうか、このような便利な仕組みが整っているのは大変ありがたい。

ローマの夜景

車中からローマ見物が始まり説明を聞きながらバチカンに近いホテルに到着した。
さあ、ローマに到着、明日から探訪が始まる。

フィレンツェ~ミケランジェロの彫刻作品

土曜日午前中で閉まってしまうサンロレンツォ礼拝堂

土曜日午前中で閉まってしまうサンロレンツォ礼拝堂

2018年2月のフィレンツェの街も、また観光客であふれていた。

私の確認不足から予定した旅程では時間の足りないことがわかり、
汽車がサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅に着くや否や、ラゲージを預けて、
飛ぶようにサン・ロレンツオ教会とメディチ家の礼拝堂へ、急いだのだった。

納骨堂にはミケランジェロの彫刻作品、「聖母子像」「曙光」「黄昏」「昼」「夜」がある。

ミケランジェロによる聖母子像

ミケランジェロによる聖母子像(真ん中)

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

 

 

 

 

ミケランジェロ『黄昏』

修復中のミケランジェロ『黄昏』

ミケランジェロ『曙光』

修復中のミケランジェロ『曙光』

 

 

 

 

 

輝く白い大理石の女性・男性の横たわった姿である。
ルーベンスもこれらを目にして模写をしているようだ。
赤色のチョークでの模写も残っている。彫刻の冷たさを絵画の柔らかさに変えることを考えたのか。

美しいドゥオモ

美しいドゥオモ

続いて訪れた花の聖母寺院ドオモの見学も、セキュリティチェックのために、寒風の中長蛇の列であった。
私の前にも日本から卒業旅行で友達とやってきたというグループが予想外の寒さに震えながら並んでいた。
土曜日、日曜日に当たると見学時間が制限されるところが多い。しっかり検索しておく必要があると反省した。

ジョットの鐘楼

ジョットの鐘楼

それにしても こんなにも美しい巨大な大量の大理石を産出するイタリアは、どこまで芸術を高める運命を担っているのだろう。
ドゥオーモとサン・ジョバンニ礼拝堂とジォットの鐘楼が白色、淡い赤色と緑色と外壁をカラフルな大理石で飾られている建築物風景は、見ただけでフィレンツェを世に知らしめ、それはこの世の物とも思えぬ豊かな財産である。

 

安堵感と共に駅に引き返してホテルへとタクシーに乗った。
土曜日の昼下がりのホテルのチェックインは想像を絶するものだった。

ホテルからポンテヴェッキオを望む

ホテルからポンテヴェッキオを望む

ホテルがポンテ・ヴェッキオ近くだったため、
土曜日の昼下がりの混雑した群集の中を突破するのに、
タクシーの運転手は、なんといきなりラジオから大音響の音を発して
人を蹴散らして車を進行させた。
旧市街内では、「クラクションを鳴らせないから」と運転手は言っていた。

以前に訪れたときは、車のクラクションとバイクの音が、石畳に響き、
ゆっくり眠れなかったのを思い出したのだった。

フィレンツェ~メディチ家の歴史

フィレンツェで最も古い聖堂サンロレンツォ聖堂

ミケランジェロがが設計に加わったものの未完の聖堂サンロレンツォ聖堂のファサード

ここで、メディチ家の強運なる一族の300年余の歴史を簡単に記しておこう。

1413年、それはジョバン二・ディ・ビッチが教皇ヨハネス23世の財政上の責任者となった時から始まる。

その息子コジモ・ロレンツォは政治的能力も備えて民衆の支持を得た。
文化的な熱情に溢れたこの時代は捨て子養育院という社会的建造物から、
サン・ロレンツォ教会、図書館にも関心を持ち、プラトン・アカデミーも設立した。
サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にある「ノアの洪水」のフレスコ画は秀逸である。
彼は まさに『祖国の父』と呼ばれるにふさわしい人物であった。

修復中のロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟ミケランジェロによる『夕刻』と『曙』で装飾されている

修復中のロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟ミケランジェロによる『夕刻』と『曙』で装飾されている

フィレンツェを「新しいアテネ」に高めたと言われる豪華王ロレンツオ(1449~1492年)への賛辞は、
アンジェロ・ファブロー二が次のように記している。

「彼は賛美と栄光に生き、自らの町だけでなく、全イタリア、全世界からの最高の尊敬を集めた」

ボッティチェリの有名な絵、「春」(1482)「ヴィーナスの誕生」とともに宮廷の教養溢れる雰囲気を醸し出している。

修道士サヴォナローラはキリスト教的で反人文主義的な熱情に燃え キリストの王国の到来を狂信的に希求していた。
神秘的な説教に魅せられ様々な改革がなされ、メディチ家も追放され、ルネッサンスの芸術作品も盗まれ破壊された。

ウルビーノ公ロレンツオ(1479~1516年)から、教皇レオ10世ジョバンニとメディチ家の母体が教皇になり再び復帰をなすのである。

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ミケランジェロによる『夜』と『昼』に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ジュリオ(教皇クレメンス7世)は(1478~1534年)は、外交手段を巧みに駆使し、メディチ家一族の復帰計画を推進した。
1527年ローマサッコが起こり、クレメンスは再びフィレンツェから追放されたが、が外交手段を巧みに駆使して、新憲法を作り上げた。
知性に溢れた芸術擁護者であった。

フィレンツェ公アレッサンドロ(1511~1537年)
メディチ家最初の公爵になった。フィレンツェ共和国公爵の肩書をもつ。

トスカーナ大公コジモ1世(1519~1574年)
共和制の痕跡は消し去れ、フィレンツェは地方国家の首都となりその豪奢を称えるために芸術が利用された。
ヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ廊下を作る。

彩色大理石で飾られた豪華な君主の礼拝堂

彩色大理石で飾られた豪華な君主の礼拝堂
コジモ1世の原案をフェルディナンド1世が引き継いで建てられた

1546年フランドルから紡績工の一団をフィレンツェに呼びタペストリー工場を設立した。
数年後には、この工場はヨーロッパで最も評価の高いタペストリー製造所となった。
1563年ヨーロッパ最初の美術アカデミーである「美術及び素描アカデミー」が創立された。
60人の画家、彫刻家、建築家によって構成され6人の役員によって運営された。
トスカーナ全域に数多くの砦を建設した。軍事建築のモニュメントである。
1569年コジモは教皇ピウス5世からトスカーナ大公の称号を与えられた。

 

トスカーナ大公フランチェスコ(1541~1587年)
内戦状態のヨーロッパの中ではあまり繁栄はなかった。ヴェッキオ宮殿の中に小書斎を設け科学に傾倒しその発達を促した。
公的な仕事には興味がなかった。
おかげで、ウフィーツ宮殿を美術館にしたのは偉大な知的偉業とのこと。
「ギャラリー」という言葉はメディチ家のコレクションを展示するのに理想的な場所として、最上階の廊下(ギャラリー)を利用したことに由来している。

 

トスカーナ大公フェルディナンド1世(1549~1609年)
ルーベンスがイタリアに滞在していた同時期の当主である。彼はスペインとのつながりを弱める一方フランスとの関係の強化を図った。
一族の繁栄に気を配った。アレッサンドロ・デ・メディチが教皇に選出されるよう策略をし、彼はレオ11世として即位する。

モザイク

彼の最大の功績は、1488年に工房の回廊、次いで輝石製作所を創設して輝石加工を組織的に行う機関を設けたことである。

精緻なモザイク

精緻なモザイク

モザイク製品が生み出された。ミケランジェロはフィレンツェモザイクを“永遠の絵画”と呼んだそうである。
またリヴォルノ港建設に力を注いだ。

 

トスカーナ大公コジモ2世(1590~1621年)
メディチ家の一族の生活の糧であった銀行の活動を止めたことは大きい。ガリレオに数学教授の席を準備して、フィレンツェに呼び戻した。海軍に力を入れ軍艦を建造した。

トスカーナ大公フェルディナンド2世(1610~1670年)この大公の50年に及ぶ治世の時代にはメディチ家衰退の長い坂道であった。美の理解者であり情熱的でヴェーネト絵画に魅了され収集した。絵画コレクションだけでなく、時計、宝石箱、玩具、置物,輝石製置物など膨大であった。

トスカーナ大公コジモ3世(1642~1723年)
フィレンツェと一族の命運を支えたメディチ家のメンバーの中では良い支配者ではなく、大公国は恐怖の専制国家となった。豪華な聖遺物容器を金属細工仕上げも立派で信仰の篤さがうかがえる。トスカーナの自治と独立のための努力をして独立を維持したことは、帝国の支配下にはいることはなかった。

トスカーナ大公  ジャン・ガストーネ(1671~1737年)
メディチ家最後の末裔である。サンタ・クローチェ教会にガリレオの記念碑を設置した。

◇ジャン・ガストーネの姉、プファルツ選帝侯妃アンナ・マリア・ルイーザによって、フィレンツェの為の最後が執り行われた。メディチ家の所属する別荘、宮殿、溢れんばかりの美術品、絵画、彫刻、貴重品の膨大な財産をトスカーナ大公国に贈ったのである。

結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルグ家の支配下にあった。
1860年にイタリア王国(1861-1946年)に合併され、1865年からヴィット―リオ・エマヌエーレ2世の治めるイタリア王国の首都になるものの1871年首都はローマに移された。

 

フィレンツェ~マリー・ド・メディシスの結婚式

Firenze

Firenze

1600年10月 ルーベンスはマントヴァに落ち着く暇もなく大公と共にフィレンツェに赴くことになった。
メディチ家の公女、マリーがフランス王 アンリ4世と結婚するのだが、代理結婚式(妙な響きだが国王はフランスを離れず、代理人がマリアに結婚指輪を渡した。)という名の結婚式に招待され、10月5日の挙式に参列した。

フィレンツェ ドゥオーモ

フィレンツェ ドゥオーモ

式場はフィレンツェの象徴である花のドゥオーモ、聖母寺院であった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレが正式の名で、シンボルのドームの完成が1446年という事である。

 

私が訪れた時は身廊の通路が大変広くとってあり、脇に椅子が並べられて結婚式の様子が想像できた。

 

ドゥオーモ内部 前方から後方を見る

ドゥオーモ内部

広々とした聖堂内

祭壇

ドゥオーモの天井

ドゥオーモの天井

式典も華やかで内外からの招待者も多かったであろう。
招待者と共に 町のあらゆる階級の人々も参列したようだ。

例えば、金細工師、屋内装飾職人、軽業師、道化師、花火師、食堂の主人、菓子職人などもよばれ、町中で大宴会が繰り広げられたとのことである。

 

なお、正式な結婚式は12月7日リヨンで行われている。

王ルイ13世の母となったマリーとルーベンスとのつながりは、この結婚式参列に始まるのであるが、後年のことを誰が予測したであろう?

後年マリー・ド・メディチは ルーベンスのパトロンとなり、ルーベンスが描いた“マリー・ド・メディシスの生涯”の大作は 現在ルーブル美術館に一部屋を占領して飾られている。

ルーヴル美術館『マリー ドゥ メディシスの生涯』

ルーヴル美術館『マリー・ド・メディシスの生涯』

 

晩年マリーがフランスを抜け出してケルンに隠居して生涯を終えた時の邸宅は、幼いルーベンスが過ごしたその同じ邸宅であった。

結婚式出席の後、ルーベンスは大公からフィレンツェの芸術を鑑賞して勉強するようにとの言葉をかけられたことは想像に難くない。
淡紅色の美しい大理石の建造物に町の豊かさを見る。

マントヴァ テ離宮

テ離宮

離宮からみた前庭

テツィアーノによる『ジュリオ・ロマーノ』

テツィアーノによる『ジュリオ・ロマーノ』

テ離宮は、ゴンザーガのフェデリコⅡ世の夏の離宮として、ジュリオ・ロマーノが1525~1535年に建て、装飾を弟子たちと共に施した。

古代ローマの時代に霊感を受けていて、ラファエロ、ミケランジェロをが統合されたルネッサンス建築として貴重に保存されている。

玄関を入ると周り廊下の壁には歴代の歴史家、哲学者、作家の賞賛の言葉が述べられている。

テ美術館「紋章の間」

テ美術館「紋章の間」

紋章の間、太陽と月の間といった小部屋、

美しく堂々としていてしかも品のあるマントヴァの誇りの馬を描いた「馬の間」、

テ美術館「馬の間」

テ美術館「馬の間」

プシュケとエロスの結婚を祝いオリンポスの様子を描いた「プシュケの間」、

テ美術館「プシュケの間」

テ美術館「プシュケの間」

オリンポスの神々と地上の神両方が描かれている「オリンポス山の神々」、

テ美術館「オリンポスの神々」

テ美術館「オリンポスの神々」

「鷲の間」イーグル(勇気と権威の象徴)、「ローマ兵の行列」「皇帝の部屋」と続き、

そして、巨人とタイタン族がオリンポスの神々に打ち倒されていく「巨人の間」

テ美術館「巨人の間」天井

テ美術館「巨人の間」天井

「神々のバンケットの間」これはカール5世がフェデリコ2世にマントヴァ公国を授けるため1530年春に訪れた記念の間。

部屋から部屋へとつながったり、また美しい天井画の渡り廊下を歩いたりして進むと様々な世界が飛びだしてくる。内容も歴史的な現実な事柄から、想像の世界へと飛翔する壮大なドラマがある。私は巨大な空間に精を出して描ききる多くの画家たちの魂に引きつけられたのかもしれない。
ここに出会えたことに感謝して 画家たちに、“ありがとう”と伝えたかった。
フレスコ画の修正画に打ち込んでくださる方々の情熱にも感謝したい。

そしてマントヴァ市に幸あれ!

ルーベンスはマンテーニャの構図の発想にどんなに影響を受けたであろうか。
じっくりと訪れては時間を忘れて絵の中に没頭し、そして、ルーベンス自身の創造力を産み出していく糧にしたであろう。

大学の同級生という事だが、今や押しも押されぬイタリア歴史の大家で数多の著書を出しておられる塩野七生さん。彼女の初版著書に“ルネサンスの女たち”がある。その第1章にイザベッラ・デステが登場する。当時の貴族社会のマントヴァ公爵夫人が実に生き生きと描かれている。

帰国後 日本との関わり合いでこんな発見もした!!
天正遣欧少年使節が、安土城を描いた屏風をローマ法王に献上する途中、マントヴァを訪問したとのこと。それがご縁で安土町と姉妹都市を締結したのだが、その後、市町村合併で安土町が近江八幡市に入ったので現在、近江八幡市が継承しているとのこと!どうぞご縁を大切にと願う。

こちらも安土桃山文化が開いたまさにその場所であるので遜色はない。安土城は織田信長が天正4年(1576年)から3年かけて完成した5層7重の天守閣を持つ城であったが、今は消滅して、石垣、礎石が往時を偲ばせてくれるが、その豪華さは歴史家が証明してくれる。
狩野永徳の絵画が飾られたであろうに。

マントヴァは湖に三方囲まれた街でありながら平野(ロンバルディア)が広が穀倉地帯である、一方、近江八幡も琵琶湖に隣接していて田畑が広がっている。信長を総大将として京都との間を駆け巡った戦場でもあったが豊臣秀吉、江戸時代以降は豪商が巨額の富を築いた煌びやかな歴史を誇る町である。近江商人の故郷となり土蔵、白壁の残る町並みが美しい。
西洋と東洋の美意識のちがいにも驚かされるであろう。
自然が豊かな寛げる観光地として、マントヴァと競って行って欲しい。

折角マントヴァのように美しい町と姉妹都市になっているのですから、文化交流の為にお互いに提携宿泊所を設けていただければ、日本からの、またイタリアからの旅行者も多く訪れるでしょう。