ルーベンス展に行ってまいりました!

ルーベンス展が始まりました

ルーベンス展が始まりました

今回の「ルーベンス展―バロックの誕生」は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みであることを開催当事者は告げます。
駐日イタリア大使は「ルーベンスはイタリアで育てられた「養子」としてこの国の顔を持つと同時に、ヨーロッパをまたにかけて活動しました。」と述べています。
そしてベルギー王国大使は、「ルーベンスは古代の美術やイタリアの巨匠たちから大きな影響を受けるとともに、彼もまた何世代もの芸術家に影響を与え、まったく新しい芸術潮流の基礎を築きました」と誇りを記しています。

アンナ ビアンコ女史は今回の展示の監修者のお一人で、ローマ出身の美術史家であられます。
展覧会初日になさった講演のほんの一部を記します。

1600年、ルーベンスはアントワープから馬と船を使い一か月でベネチアに到着したようです。
今回の展覧は、ミラノで開催された「ルーベンス展―バロックの誕生」を基にしています。
この刺激あふれるイタリアで、ルーベンスがどれだけのものを吸収したかが今回のテーマです。
時代別ではなくて7つのセクションに分けましたので、それぞれにルーベンスの世界を感じていただきたいと思います。・・・・・

「ルーベンス展ーバロックの誕生」図録より ルーベンス「聖アンデレの殉教」

図録より
ルーベンス「聖アンデレの殉教」

Ⅱの「英雄としての聖人たち」ではスペインから「聖アンドレの殉教」が来ていますが、ルーベンスはこの壮大な作品(1638年)をもって彼の宗教画家としての活動を終えました。門外不出に等しいこの絵を見る機会は私どもも最初にして最後かもしれません。ルーベンスは新しい宗教画を革命的な特徴をもって描出しました。絵が何を語っているのか、“手“の表情をよく見ていただくと一人ひとりが何を話しているか伝わってきます。

Ⅴの神話のヘラクレスは、カラカラ浴場から見つかったファルネーゼのヘラクレスの彫像がもとになっていまして力の表現として使われました。

2018年2月 ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れました。ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館にて「ラオコーン像」

2018年2月
ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れた
ピオ・クレメンティーノ美術館(ヴァチカン)「ラオコーン像」

ラオコーンや、ヘラクレスなどなどの埋もれていた古代彫刻がルネッサンスにより脚光を浴び、それらを目にしたルーベンスはひたすらデッサンを繰り返しました。表情ある肉体として多くの作品に堂々と生き返っています。・・・・・・・・

 

 

最後にビアンコさんが映像に映し出した作品は「戦争の悲惨」でした。この作品はフィレンツェのピッティ美術館所蔵の作品で今回は来ていません。でもこの作品で締めくくられました。
ルーベンスはヨーロッパの絶え間ない戦争を憂い平和を心から希求しこの作品を描きました。
彼は自分は、世界の市民、世界中を祖国とする人間であると話したそうです。彼の人間愛がどれほど大きかったかがこの言葉で分かります。
ビアンコさんはこのように締めくくられました。

ルーベンス『戦争の惨禍』ガイドは必ず立ち止まり説明をしている

ルーベンス『戦争の惨禍(戦争の悲惨)』2018年2月に訪れたピッティ宮殿パラディ―ナ美術館(フィレンツェ)にて

私の感想としては、ルーベンスはイタリアを熱愛していました。
この展覧会が企画されたことは、ルーベンスにとって まさに“ご恩返し”に値することで天へ舞うほどの喜びではないでしょうか。
素晴らしい展覧会の一言に尽きます。
イタリア滞在の8年間にこのように沢山の作品が描かれていてそれを目に出来たことは何よりの私の収穫でした。

イタリアとルーベンスに乾杯!!

いよいよルーベンス展が明日から

投稿が滞っているうちに、ついに『ルーベンス展―バロックの誕生』が開幕します。

私たちが今年の2月に、若きルーベンスを追いかけてイタリアに行った目的と同様、
ルーベンスがイタリアで吸収したこと、そして、イタリア・バロックとの関係を紹介して下さるそうです。
学問的に取り上げていただき、とても楽しみです。

4Kビジョンに、アントワープの大聖堂の祭壇画が映し出されたり、
3mを超える大作が紹介されているとのこと、
これまで「ルーベンスの魅力は、祭壇画にあると思っていて、日本ではお目にかかれない」と思っていたので、
どのようにルーベンスの魅力を伝えるべく工夫しているのか、楽しみです。

展覧会の感想はまた後日、ご報告したいと思います。

 

『ルーベンス展―バロックの誕生』は、来年1月20日(日)まで、国立西洋美術館にて。

公式サイト⇒http://www.tbs.co.jp/rubens2018/

 

ローマ~サンタ・マリア・ヴァリチェッラ教会(キエザ・ヌオーヴァ教会)

終にルーベンスの祭壇画にまみえることが出来た。現存の教会に飾られている。
サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァと言われるオラトリオ修道会)の主祭壇である。

“天使たちの崇敬を受ける聖母子の画像”
スレートに油彩 425×250㎝

伝統的な荘厳且つ華麗な教会の主祭壇に飾られていた。主祭壇の両脇に飾られている2枚も健在であった。
“聖グレゴリウス、聖マウルス、聖バビアヌス”   スレートに油彩 425×280㎝
“聖ドミティラ 聖ネレウス 聖アキレウス”    スレートに油彩 425×280㎝

楕円形の中がはっきり見えないかもしれないが、ここには聖母子像が描かれていて
取り壊す前の教会にあったもので大切に保護したいという事で祭壇画に組み入れる要望があったという事である。
それにしても主祭壇の装飾は、このように壮麗且つ豪華であるのに驚く。

キエザ・ヌォーヴァ教会

キエザ・ヌォーヴァ教会

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マスルス、聖パピアヌス』サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

キエザ・ヌォーヴァ教会主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

 

聖ヴァリチェッラ教会は地元に根付いていた。教会の扉が閉まることはなく、脇祭壇で朝8時にミサが始まったので、参加させていただいた。

白いガウンを着た先導者、お供がしずしずときて一同美しい声で、聖歌を捧げる。しばらくして、司祭と思しき方が登場してお話をなさる。イタリー語なので全く分からなかったが神の言葉であろう。祈り、聖歌、聖餐が始まり一人一人前に出て司祭から丸い御煎餅を口に入れていただいたり、手に置いて頂いたりした。2~30分くらいでしたが朝の通勤前、仕事の前、一日の始まりに参加する様子であった。50人くらいが集まったミサであった。

私は二日にかけて夕方と早朝とこの教会を訪れた。祭壇画の光のあたりかたを見たかったがあいにく曇り、雨のお天気であったので目的を達成できなかった。

告解を待っている方を見受けた。言葉が通じれば私も体験したかった。信者は毎週一度は告解をするらしい。聞くところによるとカトリック信者になることは厳しいらしい。小学校4,5年で宗教の時間が始まり、成人になる間に講義を受けなければならない。受講証明書がなければ結婚も許されないとのことである。
沢山の教会があり、派が違っていても行き着くところはバチカンとのことであった。

ルーベンスに告げたい。
祭壇画が400年も教会に大切に飾られていることを。
教会も地域の人々に守られていることを。

祭壇画は3枚とも美しく管理されているように見受けられたが 聞くところによるとここに飾られている祭壇画は全部モザイクであるとのことであった。真偽のほどは定かではないが守っていくことはそういうことかもしれないと素直に思った。
フィレンツェモザイクというのは、原色の色を薄く切って、画の図形に張り合わせていく・・・色合わせをするわけであるから、気の長い手仕事で、果てしなく時間がかかることである。
これ自身が美術品であるとミケランジェロが言っていたことを思い出す。
ここでも、色合いが教会に溶け込んでいて、少し離れて鑑賞する者には、油彩とモザイクの違いが判らない。違和感は全く持てなかった。
モザイクの方が価値が高く、手入れもいらず永久保存が効くという点で合理的である、そうなると、本物の芸術作品はいずこに保管されているのでしょうか?

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』1608年 キエザ・ヌォーヴァ

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

二日間にわたってこの教会を訪れて、私はルーベンスと祭壇画とのふれあいを大切にした。そして、ルーベンスが8年間イタリアで培ったものが開花して、天才ぶりが発芽していたからこそ、現在ここに存在できたのだと思った。

この3枚の祭壇画を描き終わり 主祭壇画が大理石で装飾された神聖な除幕式にはルーベンスは参加出来なかった。母危篤の知らせが届いたのである。
1608年10月の末に急ぎ旅支度をして、マントヴァ公の宮廷画家も辞して、故郷アントワープに戻った。
そして、彼が63年の生涯を終えるまで、再びローマ、いいえ、イタリアを訪れることは叶わなかった。

 

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ

キエザ・ヌォーヴァ

ローマ~1回目の訪問のその後

1602年にはマントヴァには帰っているようである。
1603年3月から4年夏まで ルーベンスは外交的性格を見込まれて マントヴァ公国の使節団としてスペイン王を訪問している。
この旅行のこともいずれ書かせていただきたいと願っている。

神聖ローマ帝国(ドイツ)が目と鼻の先に存在し、大国とローマ教皇庁との板挟みになりながら自国の権益を守るために、小国のマントヴァは、外交にはことのほか気を遣わねばならなかった。
日本からの天正使節団がローマを訪問すると聞けば、彼らを前もってもたなした。
スペインのような大国への貢ぎ物もゆるぎない関係を保つ上で大切な手段であった。
(今年5月に開催されていた“プラド美術館とヴェラスケス展”ではフェリーぺ4世がルーベンスの画を好まれ、政治上、宗教上、産業上でもフランドルと大変密な交流があったことを想起させてくれた。)

宮廷内の人間関係の上に、荒れた天気と王の移動が重なる苦難の旅行からマントヴァに帰ると、ゴンザーガ家から初めて祭壇画の注文が入った。
マントヴァのイエズス会の主祭壇に飾る“聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々”である。

この制作を終えて1605年、兄のいるローマを一目散に目指した。
ここにルーベンスのイタリア滞在中で最も幸せで、最も実り豊かな時期が存在する。
兄のフィリップと数か月共に過ごした至福の時があった。

この兄から、古美術の鑑定家になる素晴らしい知識を与えられた。
後にルーベンスは自ら美術品や骨董を収集するという新たな側面を担うことになる。

アントワープに帰国後、兄は1611年30代の若さで夭折してしまうので、ローマで受けた兄からの恩恵は、ルーベンスをより豊かに育てたと言ってよいであろう。

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む~兄と住んだ家もここから近い

ローマ訪問

遡ること400余年前、1601年の暮れにルーベンスは初めてローマを訪れた。
マントヴァ・ヴィンチェンツォ公から偉大な巨匠たちの作品の模写をするという名目で送り出されたのだ。
1602年4月にマントヴァに帰っているので5か月くらい滞在したという事になる。
その間にルーベンスは初めて古代美術の主要作品にじかに触れることができた。当時古代美術と言えば彫刻に限られていたとのこと。古代彫刻は古代ローマの遺跡の中に在ったり、地中から掘り起こされてはいたが、日の目を見なかったが、ルネッサンス期に入って人々の関心が高まっていった。
ローマは古典研究と古代遺物の発見の中心地となった。芸術の世界だけではなく、学問の世界でもヨーロッパの上流社会の人々にとって、何が何でもローマで学ぶことがその道の総仕上げと思われステイタスになっていたようだ。因みにルーベンスの父親もローマで法律の勉強をしていた。

『ラオコーン』像 ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館

『ラオコーン』像
ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館所蔵

若きルーベンスは古代ギリシャ、ローマの彫刻(アフリカの漁師、ラオコーン、女神像など)・・・彫刻に魅了され、熱心に研究し、デッサンを繰り返し、模写に明け暮れたようだ。

後の作品にこれらの模写の姿が多く出て来るが、コピーそのものではなくルーベンスの手による新たな人物が描き出されている。其の上、このころはコピーに対して現代のようには模倣、著作権云々とみなされることはなかった。当時の模写も多くが残っているが、それらの模写をチョークで描くことにより、輪郭線を柔らかくし、ペンよりもずっと巧みに肉体の感触を出すことが出来ることも自ら学んだ。さらに、モデルをいろいろな角度から描ききる意欲と興味に対するエネルギーを、ルーベンスは持っていた。

 

この半年間に、アルブレヒト大公から祭壇画を依頼された。

“聖女ヘレナと真の十字架”(1601年~2年)板に油彩 252×189cm
“愚弄されるキリスト”(1601年~2年)板に油彩 224×130cm

を描いたようだが、今はローマでは見られない。ローマで初めて手掛けた作品なのに・・・今はグラース市立病院礼拝堂にある。

2018年2月、私たちは真冬のさ中、東京を出発してローマに着いた。
荷物が出て来る待ち時間に洗面所を目指すと 壁とドアの色合いが目に留まった。壁は薄緑色、ドアは濃い緑色・・さすがである。ローマの玄関は爽やかであった。
空港からホテルまではお願いしておいたドライバーが待ち受けているので、私達のような女二人の旅行者には安心である。年間どの位個人客が訪れるのであろうか、このような便利な仕組みが整っているのは大変ありがたい。

ローマの夜景

車中からローマ見物が始まり説明を聞きながらバチカンに近いホテルに到着した。
さあ、ローマに到着、明日から探訪が始まる。