ジェノヴァ~ルーベンスの作品その2

真にゴージャスな歴史の中の教会、イエズス教会 サンタンブロジオ エ アンドレア聖堂の祭壇画のために、“キリストの割礼”は、1605年ごろイタリアで製作されました。

ルーベンス『キリストの割礼』イエズス教会(ジョノヴァ)

ルーベンス『キリストの割礼』イエズス教会(ジェノヴァ)

ルーベンスとイエズス会の親密な関係を表しています。
イエズス教会は、1592年8月15日マリア昇天記念日に最初のミサがあったそうです。
このような立派な教会の特色は大貴族たち、脇祭壇の名家が持つ礼拝堂の一つ一つにも表れています。

イエズス会は国のドージェ(首長)がいるので共和国の教会と考えられていました。

イエズス教会の天井

イエズス教会の天井

円天井、フランドル製のパイプオルガン、黒の大理石の柱、祭壇画それぞれにイエズス会の信義と荘厳さを感じました。

マリアが 息子の痛みを感じて顔をそむけているのが、いかにも母親らしいしぐさで共感を覚えました。
両脇に聖人の彫像で守られていて、近ずき難い距離がありました。
現在は、“割礼”は教会のテーマから排除されているとのことですから、その点で人気のある祭壇画ではないのでしょうが、
かつて、ルーベンスがこの教会から注文を受けたことを考えると、歴史的に見てもおろそかに出来ないものでありましょう。

ルーベンス『キリストの割礼』

ルーベンス『キリストの割礼』

礼拝堂に飾られている祭壇画もすべて格調高いものでした。

ルーベンスの「聖イグナチオ デ ロヨーラのとりつかれた人の救済の奇跡」を見た時はびっくりしました。
どちらが先なのか・・・・多分これを土台にしながらアントワープのイエズス会の巨大な祭壇画として完結したのではないか・・・・1618年完成である。

ルーベンス『聖イグナチオ デ ロヨーラのとりつかれた人の救済の奇跡』

ルーベンス『聖イグナチオ デ ロヨーラのとりつかれた人の救済の奇跡』

ルーベンス『聖イグナチオ デ ロヨーラのとりつかれた人の救済の奇跡』

ルーベンス『聖イグナチオ デ ロヨーラのとりつかれた人の救済の奇跡』

ウイーン歴史美術館で見たものは、とても明るい印象があるのですが、ここではほの暗い中で見て崇高さを感じたので、やはり祭壇画は教会に収まっているのが良いのかなと思いました。
12の礼拝堂に飾られている祭壇画も皆格調高いもので丁寧に鑑賞しました。

「十字架」「マリアの被昇天」「聖心」「聖ヨハネ」「聖イグナチウス」「聖ステファン」「聖フランシスコ ザビエル」などが題材であり、かなり有名な画家たちが描いていることが分かります。
金融で大金持ちになったジェノヴァ共和国のかつての繁栄を感じとることが出来た上に、ルーベンスの作品にも会うことが出来ました。その上フランドルとジェノヴァが大変親しい関係があることを知り、今回ここを選んだのは大成功と喜びを胸いっぱいに感じながら、寒いジェノヴァを後にしました。

サンタンブロジオ聖堂

サンタンブロジオ聖堂

ジェノヴァ~ルーベンスの作品その1

◇赤の宮殿

邸宅郡のひとつ、赤の宮殿

邸宅郡のひとつ、赤の宮殿

外壁が赤みがかった石でデザインされたのでこう呼ばれています。

ガルバルディ通りに面して、過去は王侯の居住のような貴族の立派な館でしたが、
今では国家に寄付されて美術館になって、豪華な居室でコレクションを鑑賞できました。
ルーベンスの時代より後に建てられたとのこと。金ぴかな印象です。

赤の宮殿内部

 

ヴァン・ダイクの肖像画などもあり、
ベルナルド・ストロッツィの、少女がガチョウをさばく姿はまさにフランドルを感じます。
P.P.Rubens→Anton van Dyck→Ansaldo→Asseretoと続く系譜をジェノヴァ派と呼ぶらしいです。

ヴァン・ダイクの肖像画

ベルナルド・ストロッツィ『女料理人』

 

 

◇白い宮殿 16世紀末に建てられたが今は国家に住居ごと寄付され美術館となっています。驚くほどのフランドル派の作品も見られました。

白の宮殿

 

ここでルーベンスの絵とお目にかかれました。初めて見る画です。

『ヴィーナスとマルス』ルーベンス

イタリア語の題名のみで、解説もないので重要視されていなかった印象です。
仲よさそうな男性と女性の傍に天使がいたり、バッカス(ローマのお酒の神)がいる何か寓話っぽい絵ですが、説明も見当たりませんでした。
解説が必要ですが、記述されていないことは不詳なことが多いのかと思いました。

ルーベンス個人で全部描いたのではなく 工房の弟子たちも描いている作品かもしれません。
でもそれはこの時代には、罷り通っていたことですので非難されるに及びません。
いつか調べるに値すると思いました。ルーベンスの全盛期のタッチが明らかに見られます。アントワープはイタリア語ではANVERSAというらしいことが分かりました。
落ち着いた赤色の壁に3枚かかっている内の一枚として飾られていました。画集でも美術館でも記憶になく、初めて目にした絵でしたのでびっくりしました。

その他、カラヴァッジョ・・エッケ・ホモ、 ヴェロネーゼの作品、
スペインの画家、ムリーリョ、スバランもありました。

カラヴァッジョ『エッケ・ホモ』

 

◇トゥルシ宮
現在は、市庁舎として使用されているそうで、
古い貨幣や壺などジェノヴァの歴史を知ることができる展示になっていました。
隆盛を極めていた時、ジェノヴァはみょうばんを独占。
イギリスで生産されていた羊毛を染めるのにみょうばんが欠かせなかったそうなので、
羊毛の産地イギリス、タペストリーの生産地フランドルとの交易が盛んだったことを感じました。

フランドルからもたされたであろうタペストリーも展示されていた

トゥルシ宮で展示されている壺

トゥルシ宮で展示されている壺

中庭

 

ローマから離れ、ルネッサンスからも離れていたと思っていたジェネヴァでしたが、名画を数々鑑賞できて静かな穴場のように感じました。

ジェノヴァ~ジェノヴァの大邸宅とルーベンス

ジェノヴァは、16世紀に総督ドリアの下スペインと同盟を結び、欧州カトリック世界のメイン銀行となって金融業で繁栄しました。

ルーベンスの時代のジェノヴァのコイン

ルーベンスの時代のジェノヴァのコイン

スペイン国、ヴァチカン、イタリア諸公国、イギリス、フランドル、フランス、北ヨーロッパの諸侯も借りました。
金融業で成功した人々が個人、個人で大きな豪奢な邸宅を建築しだしました。
ジェノヴァ詣でをする世界中のお客様のための、いわばホテルが必要となり、16世期後半から17世期にかけて、富裕貴族が住む豪華な館、大邸宅を厳選し、“ロッリ”と呼ぶリストを作り、それらを国家の来賓の宿泊先としました。

フェラーリ広場

フェラーリ広場

1604年、マントヴァ公の使節としてスペインへ行った帰りに、ルーベンスはここを訪れています。
多額の費用がかさんだ相談をマントヴァ公の銀行家との交渉があったのかもしれません。
その後何回か1606年、1607年にもジェノヴァを訪れているようです。

それには、フランドルとジェノヴァは海路にて商業を通じての長いお付き合いがあったのです。

物流の交流は芸術の交流になっていました。
フランドルの画家も大勢ジェノヴァを訪れジェノヴァの画家たちに教えているのです。
人間は偉くなると肖像画を欲しくなるもので、画家たちは貴族に肖像画を頼まれました。

全身大の肖像画は大変人気がありました。

1607年の夏、マントヴァ公のお供でルーベンスもこの地を訪れた時に、貴族の館に咲くオレンジの花、ジャスミンの花の香りに感激したようです。
この頃からルーベンスは建築にも大変興味を持ち始め、アントワープで1622年『ジェノヴァの邸宅建築』という題名の本を出版しています。
また、結婚後アントワープで広大な館にジェノヴァ風の豪邸を建てていますので、その熱心ぶりが分かります。

1620~21年にかけて、ルーベンスの肝いりで弟子ヴァン・ダイクもジェノヴァも訪れています。

ルーベンスが憧れたスピノラ宮

ルーベンスが憧れたジェノヴァの大邸宅

トルシ宮

ジェノヴァ~ジェノヴァの歴史

ミラノ駅では大雪の為に遅延する電車の影響がどのくらいあるのか不安でしたが、さして混乱も見られず、旅行者は冷静に、駅構内の放送に耳を傾け出発時刻案内板を眺めて対応していたのが印象にあります。
私達の乗るインターシティ号も15分くらい遅れの出発となりました。

ミラノはシベリア寒気団で大雪に見舞われた

ミラノはシベリア寒気団で大雪に見舞われた

真白い田園風景の広がりを走ったかと思うと一転して、トンネル、またトンネルの山間に入りました。
いくつかを抜けるといつの間にか雨に変わっっていて、列車は長い下り坂を懸命に下って行きました。
イタリアの地形の複雑さは2時間くらいの旅でも十分に経験できます。

コロンブスの像

コロンブスの像

ジェノヴァ駅は意外にどこにでもある普通の駅という感じでしたが、駅を出た所にコロンブスの像が高みから誇らしげに私達を出迎えてくれました。
広場を下っていくと、旧市街に出て、まさに中世の都市に潜っていく感じがしました。

街の歴史は、やはり理解の上で重要です。
ジェノヴァは、イタリアの地中海海岸の商業都市として十字軍時代から都市共和国として繁栄はしていたものの、
新興の商人層と旧来の貴族層が、それぞれ対立して内部抗争が激しかったようです。
が、1339年に中産市民が貴族政権を倒して統領(ドージェ)を選出し、共和制を樹立しました。

15世紀に入ってオスマン帝国が地中海東部を支配するようになって東方貿易が衰退したことを受けて、ジェノヴァ商人は盛んにスペイン王室に食い込んで、コロンブスのように大航海時代の先駆けを輩出しました。1516年のジェノヴァ共和国の行動の記録があります。

チュニジアの海岸一帯で海賊並みの蛮行を働いた後、帰還した直後に、この一帯の行政上の責任者であるチュニスの「首長」に使節を送り、次のように言明させました。
「チュニスの港にジェノヴァ船が繋がれていた事実は、それを奪って北アフリカに引航した海賊クルトゴルの行動を、チュニス当局も認めていたという事を示している。もしも、今後ともジェノヴァとの通商関係を続けたいと思うならば、また二度とチュニジアの地中海側が荒らされたくないと思うならば、あなたの統治する全地方から海賊を追放すると確約すべきである。」
首長ブフダは次のことを約束するしかなかった。
第一にジェノヴァ船は襲わないこと。
第二にジェノヴァ共和国の領土であるリグ―リアの海岸地方は襲撃しないこと。
この二つをクルトゴルに伝える約束をしたのでした。

黄金時代の到来です。

エレベーターで街の上へ

エレベーターで街の上へ

街の一角に備えられているエレヴェーターで丘に着くと、見晴らしが素晴らしく、前方は地中海に連なるリグリア海を一望できる港町がひろがり、後ろには緩やかな斜面に大きな家が建っていて、日本でいえばかつての神戸の港町に似たところがあります。
はるか右手の港はクレーンが無数に伸びていて活況ぶりがうかがえました。
というのも、ミラノ、トリノ(車)など北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港は現在でもイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っているのです。

港にはジェノヴァの旗「白地に赤い十字」でひらめいています。
港だけではなく宮殿、美術館、観光地、狭い通りにもよく見かけます。この旗は諸国の海賊、貿易船に怖がられたそうです。

海賊にさえ恐れられたジェノヴァの国旗

海賊にさえ恐れられたジェノヴァの国旗

路地にもジェノヴァ国旗

路地にもジェノヴァ国旗

一般にセント・ジョージ・クロスとよばれているイングランド国旗には由来の一節があり、
ジェノヴァの旗に似せた国旗を作り、海上で遠くから見ると、少しでも怖がらせて、危険を回避させようという思いで、旗を創ったと言われています。
さもありなんと感心します。イギリスの国威が弱かった時代のことです。イギリスとは紳士的に交渉があったようです。

児童書物「母を尋ねて三千里」で、少年マルコがこの港から出稼ぎに行った母親を探しにブエノス アイレスへと出港したことを思い出しました。
中世の栄華から衰退していくジェノヴァの市民生活が表現されているこの物語も日本で第2弾としてアニメ化され、少年、少女の心を揺さぶったのでご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
日本人は健気な少年、少女がお好きですね。

海に向かって広がるジェノヴァの街

海に向かって広がるジェノヴァの街

 

ミラノ~ミラノには2枚の「最後の晩餐」がありました その2

◇ブレラ美術館

ルーベンスの「最後の晩餐」  油彩画 304×450㎝

ルーベンス『最後の晩餐』ブレラ美術館

ルーベンス『最後の晩餐』ブレラ美術館

1631年から1632年にかけてメヘレンの聖ロンバウツ教会の祭壇画として描いた。どのような経緯でここに所蔵されたのか?
ナポレオンがイタリアにルーブル美術館のような美術館を建てようと意欲を燃やして建てたとのことです。

弟子たちが四角い机を囲んだ正面にイエスがパンを祝福しています。
ユダが手前に描かれこちらをぎろりと向いている。足許には犬がいて寓話的です。
パンとワインを祝福するイエスの姿の手前に裏切るユダの姿が観客を眺めて写しだされています。

印象的なユダの眼

印象的なユダの眼

これはルーベンスがミラノでレオナルド・ダ・ビンチの“最後の晩餐”を見たずっと後、約20年後依頼を受けて描かれました。

この祭壇画の構図が、巨匠の師であるオットー・ヴァン・ヴェーンが1592年アントワープの大聖堂から注文を受けて描いた祭壇画に類似していることに注目するのです。
大聖堂に現在も飾られているのですが、聖餐式のために捧げられたものです。いかに似ているか比べてみましょう。
(350×247㎝) キャンバス、油彩

オットー・ファン・フェーン『最後の晩餐』

オットー・ファン・フェーン作『最後の晩餐』

 

◇アンブロジーナ図書館
ルーベンスのラオコーンの素描画が数枚あるという事で行ってみましたが、残念ながら展示されていませんでした。

アンブロジーナ図書館

アンブロジーナ図書館