ミラノ~ミラノには2枚の「最後の晩餐」がありました その1

◇最後の晩餐
レオナルド ダ ヴィンチ「最後の晩餐」壁画,テンペラ  420×910㎝

ダヴィンチ『最後の晩餐』

ダヴィンチ『最後の晩餐』

レオナルド・ダ・ヴィンチは、3年(1495~1498)をかけてこの絵を完成させた。
修道院の食堂に描かれていて、いつの頃か入口が作られ、そのため一部切り取られたがそれはイエスの足も含まれた部分であった。
粗末に扱われたらしい。馬の厩舎になったこともあるという。

なお、こちらの絵は、釘を使った遠近法で描かれたそう。
3人一組の4グループで描かれており、視線がキリストに集まるようになっているとのこと。
ユダを表す印がいくつかあり、
・顔に光があたっていない
・こめかみの高さで指さされている
・キリストと同じ袋に手を伸ばしている
・背中にナイフが描かれている
など。

ユダは、左から5番目(座っている位置で。顔の位置では4番目)の人物。

イエスと12人の弟子の名前がその国の言葉で随分違ってしまっている。
折角のチャンスなので記しておこうと思う。
説明ではイタリア語、英語、フランス語での表記があった。

(画面向かって左から)
Bartolomeo    Bartholomew     Barthelemy     バルトロマイ
Giacomo Minore  James the less       Jaques le Minaur   小ヤコブ
Andrea       Andrew        Andre        アンデレ
Pietro         Peter         Pierre               ペテロ
Giuda        Judas Iscariot     Judas I’lscariote         イスカリオテのユダ
Giovanni         John          Jean           ヨハネ

Gesu Cristo      Jesus                    Jesus       イエス キリスト

Tommaso          Thomas         Thomas        トマス
Giacomo Maggiore  James the Greater   Jaque le Majeur     大ヤコブ
Flippo         Philip          Philippe          フィリポ
Matteo       Matthew      Matthieu             マタイ
Taddeo              Thaddaeus       Thaddee       タダイ
Simone Zeolota   Shimon the Zealot  Simon le Zelote          ゼオェタのシモン

幸運にも、空いていました。食堂だった雰囲気がわかります。

サンタ・ マリア・デッラ・グラツィエ教会

『最後の晩餐』のあるサンタ・ マリア・デッラ・グラツィエ教会への入場は、予約必須。

ミラノ~ドゥオモとスカラ座

ミラノの歴史も、「次から次へと変遷する中で未来に受け渡すものを創っている」が印象です。

紀元前600年のケルト人の町を元にし、古代ローマの支配を受けました。
中世後期とルネッサンス時代にはミラノはヴィスコンテ家とスフォルツオ家のミラノ公国になりましたが、
1500年フランス軍が占領し、1535年ミラノ公国は終焉しました。
1600年代末から1700年代初めにかけてヨーロッパを巻き込んだ幾多の戦争の結果、
オーストリアの統治下になって文化、経済、建築と成長拡大時代に入りました。
ナポレオンはミラノをイタリア王国の首都としました。
1848年、ミラノはイタリア統一運動の中心地となり、1861年イタリア王国宣言されます。
第2次世界大戦で敗戦するが復興目覚ましいものがあります。

◇ドゥオモ

ミラノのドゥオモ

ミラノのドゥオモ

 

雪まじりの寒風の冬の日も白く光り美しいドゥオモは輝いていた。
壮大などドゥオモは14世紀に着工されたが度重なる戦火によって施工が中断、完成したのは19世紀初頭のこと。
(ナポレオンの完成への意欲があったとのこと)
500年にわたり建造されたことになる。

そのため建築様式もルネッサンス、ゴシック‥様式も変わっていった。
多くの尖塔が空に向かって伸び、彫像が屋根上から地上を見下ろしている。(135本の尖塔と2245体の彫像)

聖堂内の装飾、新約聖書を題材にしたものなど巨大なステンドグラスも存在感があり、多くの歴史を秘めて美しい。
4台のパイプオルガンを所持。
若かりし40代に一度屋上まで上ったことがあったが、屋根の上の爽快感は忘れ難い。
こんなに大きな聖堂が建てられるのは人間の技かと信じがたかった。

森を思わせる荘厳なゴシック

森を思わせる荘厳なゴシック

美しいステンドグラス

美しいステンドグラス

◇オペラ「シモン ボッカネ―グラ」をスカラ座で鑑賞。

国民的英雄として人気が高いヴェルディの作曲である。
ジェノバの海賊が貴族へと成長していく時代の悲劇が舞台である。
総勢100人もの合唱、歌手の声量の迫力、舞台装置の大規模なことにオペラの醍醐味を充分味わえた。
寒いときでもあり、老婦人達は毛皮のコートを召していらした。

一生に一度と勇気を出して正面のバルコン席を東京から予約。
6人で一部屋らしいが、私たちの後ろに「今日が結婚60年の記念日」とおっしゃるご夫婦がアムステルダムから鑑賞にいらした。
大柄な方で椅子の足が高いとはいえ見えにくそうでやはり一番前の席の価値はあるのだった。

スカラ座でリハーサル中

スカラ座でリハーサル見学

ローマ~カピトリーノ美術館

次に、カピトリーノ美術館。

古代ローマの聖地に建つこちらの美術館には、ルーベンスの「ロムルスとレムスの発見」がある。
聖ペテロニア ホールで見ることが出来る。1612~13年頃の作品である。
ロームルスとレムスは、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟で、ローマの建設者。
ローマ市は紀元前753年4月21日にこの双子の兄弟によって建設されたと伝えられている。

ルーベンス『ロムルスとレムス』カピトリーノ美術館

ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』カピトリーノ美術館

 

雌狼と二人の子供達を構想するに際して、当時、ヴァティカンのヴェルヴェデーレの中庭に置かれていた古代彫刻<テヴェレ川>をモティーフに利用した。
教養豊かな枢機卿からの注文である可能性が高い。
それにしてもルーベンスの愛してやまないローマを描く機会を外国人であるフランドル人にいただいた時間は彼にとって至福の時であったろう。

なお、『狼の乳を吸うロムルスとレムスの像』もこちらの美術館にある。

狼の乳を吸うロムルスとレムスの像

狼の乳を吸うロムルスとレムスの像

 

こちらは、『カピトリーノのヴィーナス』と呼ばれている。
紀元前4世紀の複製である。

カピトリーノのヴィーナス

カピトリーノのヴィーナス

また、“勝利の間”に素晴らしく可愛らしい像があった。「Spinario」
少年が足のとげを抜いているブロンズ像である。忘れられない。

とげを抜く少年

とげを抜く少年

 

この美術館には沢山の彫刻、ブロンズ像が集められている上に、距離的にも住居から近いのでルーベンスは足しげく通ったにちがいない。

イタリアの情勢は中世末期には教皇領、ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国‥多数の国、諸侯・都市が分立していた。
その上、ドイツ、フランスなど外国の干渉が加わって国家の統一は程遠かった。
フランス革命後ナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ大陸を支配し、イタリアも支配されて一時ミラノが首都になったこともあったたが、ガリバルディが1870年法王領を併合してイタリア統一を成立した。

ローマに遷都、紆余曲折の末バチカン国は、1929年、ラテラーノ条約により独立国として認められた。
イタリアは第2時世界大戦で敗戦し1948年共和制となって現在に至る。
まさに怒涛の歴史である。それでも過去の都市国家の繁栄のおかげで観光都市として誇る一方新しいものつくりを目指している。

荒廃したローマの都市の遺跡の発掘始まったのは実に20世紀に入ってからとのことである。
まだ手つかずの遺跡が目につく。新しい発見がこれからも世界を驚かしてくれるであろう。やはり 芸術の都は甦っている。

「クオ ヴァディス」「聖衣」 「ベン・ハー」「ローマの休日」「山猫」「天使と悪魔」など‥
記憶に残る映画をピックアップしても枚挙にいとまがない。
人々を魅してやまないローマとは別れ難かった。溢れるほどの刺激を頂いた都市である。

イタリアへ旅立つ前に“イタリアへ行く”というと、周囲では決まって“すりに気をつけなさい”と言われた。
コートの下にバッグを掛けると大変不便であったが対応せざるを得なかった。
けれども今回の旅行でイタリアは変わっていたと思った。すりなどの危険を感じることはなかった。
警官が循環しているようでもあった。難民の流入に神経を使っているのかもしれない。また 町にはごみが少なく清潔な印象を持った。
列車の遅延も雪の時でも最大限の努力がなされていた。
旅行者に便利なように知恵が使われていた。
政府と国民が一体となって歴史的観光都市への自覚と使命感を担っているのであろう。
治安がよろしいのであるから何度でも訪れてみたいと思った。

ローマ~「ボルゲーゼ美術館」

ルーベンスの絵を所蔵している美術館を巡った。

ボルゲーゼ美術館は、ボルゲーゼが個人で蒐集した作品があまりに素晴らしいので、
彼の財産を国が購入して1901年創設の秀逸品揃いの美術館である。
鑑賞は2時間と決められていて交代制になっている。
予約必須。荷物も預けての鑑賞である。

第18室にルーベンスの作品が2つある。

ボルゲーゼ美術館 第18窒

ボルゲーゼ美術館 第18窒

まずは「ピエタ」。
1602年、最初のローマ滞在の折に描かれた。
キリストの姿の乳白色の体、マグダラのマリアの肢体がユニークである。
初めてお目にかかった絵である。
ルーベンス展で再会。

『ピエタ』ボルゲーゼ美術館

『ピエタ』ボルゲーゼ美術館

 

すぐ横に、「スザンナと長老たち」
こちらも先日のルーベンス展で再会した。

ルーベンス「スザンナと長老たち」ボルゲーゼ美術館

ルーベンス『スザンナと長老たち』ボルゲーゼ美術館

 

 

第1室にはパオリーナ・ボナパルテの横たわる大理石像、ただただ美しい!

「パオリーナ・ボナパルテ像」

「パオリーナ・ボナパルテ像」

 

第2室ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「ダビデ」(1623~1624年)
人気のある作品で大変にぎわっていた。作者の意図する角度があるのでこれを欠かしてはならない。

「ダビデ像」ボルゲーゼ美術館

「ダビデ像」ボルゲーゼ美術館

 

ベルニーニの彫刻を多分ルーベンスは見る機会がなかったと思われるが
神話を劇的に表現する彫刻作品の数々を見ていたらどんなに魅了されたであろうか。
何かルーベンスと一致するものが流れている、時代性を感じた。
特に貞潔なニンフ、ダフネの月桂樹への変身と
空しくそのあとを追う光の神アポロンの姿の造形(1622~1624年)の迫力、と果たしない愛情の哀しさを感じさせる作品である。

ベルニーニ「アポロンとダフネ」ボルゲーゼ美術館

ベルニーニ「アポロンとダフネ」ボルゲーゼ美術館

 

そして、第20室 ティツィア―ノ、「聖愛と俗愛」(1514)も決して見逃してはいけない。

ティツィアーノ「聖愛と俗愛」

ティツィアーノ「聖愛と俗愛」

 

この他にも、素晴らしいコレクションが多く、是非多くの方々に訪れてほしい。

 

フィリップの2通の手紙

母上、

アントワープも寒くなってきたと思いますがお元気でしょうか?

ポールがひどい肋膜炎にかかってローマに到着しましたが、
ドイツから来ているヤン・ファーベル医師の治療のおかげですぐに元気になりました。ご安心ください。
今は遺跡を見学したり、建設中の教会に設置される最新の絵画を観察したり、
教会の装飾にも興味を持っているようで、毎日出かけています。

私はローマ大学での学びも終わり、学位をいただきました。
フランドルからのリシャルドー、ローマ大使の秘書をする合間に、弟さんの家庭教師も続けています。

昨日名門ピーザ大学からお誘いを受けました。
ありがたいお話なのですがよく考えてからお返事するつもりです、

御元気でお過ごしください、
あなたのフィリップ

1605年秋の日に

————–

リピシウス教授、ルーヴァン大学気付

フィレンツェ・ピッティ美術館にある『4人の哲学者』 右から一人おいて、フィリップの師でスコラ哲学者のリプシウス教授、兄フィリップ、背後にルーベンス。後ろにセネカ像。

フィレンツェ・ピッティ美術館にある『4人の哲学者』
右から一人おいて、フィリップの師でスコラ哲学者のリプシウス教授、兄フィリップ、背後にルーベンス。後ろにセネカ像。

御元気にお過ごしでいらっしゃいますか

ローマにおりますと先生にご教授いただいたスコラ哲学の神髄が体に溶け込んでまいります。
セネカの胸像を手に入れました。いつも近くにいたいと思っています。

おかげさまでローマ大学で学位を授与されました。
今は アスカニオ・コロンナ枢機卿の書物係を務めております。

名門ピーザ大学からお誘いを受けました。
そこでローマ時代の風習についての研究をするようにとのことでした。

アントワープに一人母を残していますので気がかりもございます。

ご報告かたがた
あなたの忠実なる弟子、フィリップ ルーベンス

 

※リピシウス教授は、ラテン語の学者であり、スコラ哲学の権威でもある。
ルーベンス兄は弟子であり、ポールもこの仲間の一人としてスコラ哲学の知識を得て、
ギリシャ、ローマの古典美術の鑑賞に大いに役に立った。
後に名門ルーヴァン大学の教授となる。