ローマ~サンタ・マリア・ヴァリチェッラ教会(キエザ・ヌオーヴァ教会)

終にルーベンスの祭壇画にまみえることが出来た。現存の教会に飾られている。
サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァと言われるオラトリオ修道会)の主祭壇である。

“天使たちの崇敬を受ける聖母子の画像”
スレートに油彩 425×250㎝

伝統的な荘厳且つ華麗な教会の主祭壇に飾られていた。主祭壇の両脇に飾られている2枚も健在であった。
“聖グレゴリウス、聖マウルス、聖バビアヌス”   スレートに油彩 425×280㎝
“聖ドミティラ 聖ネレウス 聖アキレウス”    スレートに油彩 425×280㎝

楕円形の中がはっきり見えないかもしれないが、ここには聖母子像が描かれていて
取り壊す前の教会にあったもので大切に保護したいという事で祭壇画に組み入れる要望があったという事である。
それにしても主祭壇の装飾は、このように壮麗且つ豪華であるのに驚く。

キエザ・ヌォーヴァ教会

キエザ・ヌォーヴァ教会

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マスルス、聖パピアヌス』サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

キエザ・ヌォーヴァ教会主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

 

聖ヴァリチェッラ教会は地元に根付いていた。教会の扉が閉まることはなく、脇祭壇で朝8時にミサが始まったので、参加させていただいた。

白いガウンを着た先導者、お供がしずしずときて一同美しい声で、聖歌を捧げる。しばらくして、司祭と思しき方が登場してお話をなさる。イタリー語なので全く分からなかったが神の言葉であろう。祈り、聖歌、聖餐が始まり一人一人前に出て司祭から丸い御煎餅を口に入れていただいたり、手に置いて頂いたりした。2~30分くらいでしたが朝の通勤前、仕事の前、一日の始まりに参加する様子であった。50人くらいが集まったミサであった。

私は二日にかけて夕方と早朝とこの教会を訪れた。祭壇画の光のあたりかたを見たかったがあいにく曇り、雨のお天気であったので目的を達成できなかった。

告解を待っている方を見受けた。言葉が通じれば私も体験したかった。信者は毎週一度は告解をするらしい。聞くところによるとカトリック信者になることは厳しいらしい。小学校4,5年で宗教の時間が始まり、成人になる間に講義を受けなければならない。受講証明書がなければ結婚も許されないとのことである。
沢山の教会があり、派が違っていても行き着くところはバチカンとのことであった。

ルーベンスに告げたい。
祭壇画が400年も教会に大切に飾られていることを。
教会も地域の人々に守られていることを。

祭壇画は3枚とも美しく管理されているように見受けられたが 聞くところによるとここに飾られている祭壇画は全部モザイクであるとのことであった。真偽のほどは定かではないが守っていくことはそういうことかもしれないと素直に思った。
フィレンツェモザイクというのは、原色の色を薄く切って、画の図形に張り合わせていく・・・色合わせをするわけであるから、気の長い手仕事で、果てしなく時間がかかることである。
これ自身が美術品であるとミケランジェロが言っていたことを思い出す。
ここでも、色合いが教会に溶け込んでいて、少し離れて鑑賞する者には、油彩とモザイクの違いが判らない。違和感は全く持てなかった。
モザイクの方が価値が高く、手入れもいらず永久保存が効くという点で合理的である、そうなると、本物の芸術作品はいずこに保管されているのでしょうか?

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』1608年 キエザ・ヌォーヴァ

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

二日間にわたってこの教会を訪れて、私はルーベンスと祭壇画とのふれあいを大切にした。そして、ルーベンスが8年間イタリアで培ったものが開花して、天才ぶりが発芽していたからこそ、現在ここに存在できたのだと思った。

この3枚の祭壇画を描き終わり 主祭壇画が大理石で装飾された神聖な除幕式にはルーベンスは参加出来なかった。母危篤の知らせが届いたのである。
1608年10月の末に急ぎ旅支度をして、マントヴァ公の宮廷画家も辞して、故郷アントワープに戻った。
そして、彼が63年の生涯を終えるまで、再びローマ、いいえ、イタリアを訪れることは叶わなかった。

 

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ

キエザ・ヌォーヴァ

ローマ~1回目の訪問のその後

1602年にはマントヴァには帰っているようである。
1603年3月から4年夏まで ルーベンスは外交的性格を見込まれて マントヴァ公国の使節団としてスペイン王を訪問している。
この旅行のこともいずれ書かせていただきたいと願っている。

神聖ローマ帝国(ドイツ)が目と鼻の先に存在し、大国とローマ教皇庁との板挟みになりながら自国の権益を守るために、小国のマントヴァは、外交にはことのほか気を遣わねばならなかった。
日本からの天正使節団がローマを訪問すると聞けば、彼らを前もってもたなした。
スペインのような大国への貢ぎ物もゆるぎない関係を保つ上で大切な手段であった。
(今年5月に開催されていた“プラド美術館とヴェラスケス展”ではフェリーぺ4世がルーベンスの画を好まれ、政治上、宗教上、産業上でもフランドルと大変密な交流があったことを想起させてくれた。)

宮廷内の人間関係の上に、荒れた天気と王の移動が重なる苦難の旅行からマントヴァに帰ると、ゴンザーガ家から初めて祭壇画の注文が入った。
マントヴァのイエズス会の主祭壇に飾る“聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々”である。

この制作を終えて1605年、兄のいるローマを一目散に目指した。
ここにルーベンスのイタリア滞在中で最も幸せで、最も実り豊かな時期が存在する。
兄のフィリップと数か月共に過ごした至福の時があった。

この兄から、古美術の鑑定家になる素晴らしい知識を与えられた。
後にルーベンスは自ら美術品や骨董を収集するという新たな側面を担うことになる。

アントワープに帰国後、兄は1611年30代の若さで夭折してしまうので、ローマで受けた兄からの恩恵は、ルーベンスをより豊かに育てたと言ってよいであろう。

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む~兄と住んだ家もここから近い

ローマ訪問

遡ること400余年前、1601年の暮れにルーベンスは初めてローマを訪れた。
マントヴァ・ヴィンチェンツォ公から偉大な巨匠たちの作品の模写をするという名目で送り出されたのだ。
1602年4月にマントヴァに帰っているので5か月くらい滞在したという事になる。
その間にルーベンスは初めて古代美術の主要作品にじかに触れることができた。当時古代美術と言えば彫刻に限られていたとのこと。古代彫刻は古代ローマの遺跡の中に在ったり、地中から掘り起こされてはいたが、日の目を見なかったが、ルネッサンス期に入って人々の関心が高まっていった。
ローマは古典研究と古代遺物の発見の中心地となった。芸術の世界だけではなく、学問の世界でもヨーロッパの上流社会の人々にとって、何が何でもローマで学ぶことがその道の総仕上げと思われステイタスになっていたようだ。因みにルーベンスの父親もローマで法律の勉強をしていた。

『ラオコーン』像 ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館

『ラオコーン』像
ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館所蔵

若きルーベンスは古代ギリシャ、ローマの彫刻(アフリカの漁師、ラオコーン、女神像など)・・・彫刻に魅了され、熱心に研究し、デッサンを繰り返し、模写に明け暮れたようだ。

後の作品にこれらの模写の姿が多く出て来るが、コピーそのものではなくルーベンスの手による新たな人物が描き出されている。其の上、このころはコピーに対して現代のようには模倣、著作権云々とみなされることはなかった。当時の模写も多くが残っているが、それらの模写をチョークで描くことにより、輪郭線を柔らかくし、ペンよりもずっと巧みに肉体の感触を出すことが出来ることも自ら学んだ。さらに、モデルをいろいろな角度から描ききる意欲と興味に対するエネルギーを、ルーベンスは持っていた。

 

この半年間に、アルブレヒト大公から祭壇画を依頼された。

“聖女ヘレナと真の十字架”(1601年~2年)板に油彩 252×189cm
“愚弄されるキリスト”(1601年~2年)板に油彩 224×130cm

を描いたようだが、今はローマでは見られない。ローマで初めて手掛けた作品なのに・・・今はグラース市立病院礼拝堂にある。

2018年2月、私たちは真冬のさ中、東京を出発してローマに着いた。
荷物が出て来る待ち時間に洗面所を目指すと 壁とドアの色合いが目に留まった。壁は薄緑色、ドアは濃い緑色・・さすがである。ローマの玄関は爽やかであった。
空港からホテルまではお願いしておいたドライバーが待ち受けているので、私達のような女二人の旅行者には安心である。年間どの位個人客が訪れるのであろうか、このような便利な仕組みが整っているのは大変ありがたい。

ローマの夜景

車中からローマ見物が始まり説明を聞きながらバチカンに近いホテルに到着した。
さあ、ローマに到着、明日から探訪が始まる。

母に宛てたフィレンツェからの手紙

母上様、

その後お変わりなくお元気ですか?

僕は思いがけず、大公にお供をしてフィレンツェに来ています。夢のようです。

Firenze

メディチ家の公女がフランス王アンリ4世に嫁ぐ結婚式に参列したのです。
国王自身ははここまで来られなくて、代理人が指輪を届けに来ました。
メディチ家の御姫様がフィレンツェからパリへと離れるという事で、町を挙げてのお祝いムードでした。
結婚式は、花の聖母寺院で厳かに豪華に盛大に行われました。

マリード メディシスとアンリ4世の結婚式が行われたドゥオモ

マリード メディシスとアンリ4世の結婚式が行われたドゥオモ

今回お輿入れのマリー公女の前に、もう一人メディチ家からフランスに嫁いでいる女性がいることを知りました。
彼女は苦境を乗り越えて後にカトリーヌ大公妃となったそうです。母上はごぞんじですか?
お輿入れの時にはメディチ家から召使い、香水師、料理人など多数連れて行ったそうです。
ジェラート(アイスクリーム)やナイフやフォークも持参したそうですから、フランスはフィレンツェよりも何事も遅れていたのでしょうか。

フィレンツェは色とりどりの大理石が取れるところで、建築物の外装、内装にふんだんに使われているのでとても豪華で美しいです。
母上にもお見せしたいです。

ウフィッツ美術館は10年くらい前から少しずつ公開されていますが、
御計らいでボッティチェリ、ラファエッロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの描いた名画、名彫刻を見せていただきました。

ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』

ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』

ラファエロ『カルデリーノの聖母』

ダヴィンチ『受胎告知』

ダヴィンチ『受胎告知』

 

 

 

 

 

美しいものが見られて幸福です。興奮の連続です。

またお便りしますね、ご報告まで

貴方のパウルより

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

フィレンツェ~ピッティ宮殿パラディーナ美術館のルーベンス作品

 

ピッティ宮殿

ピッティ宮殿

今回の旅の目的の一つに、ピッティ宮殿のパラティーナ美術館を訪れることがある。
ここに3枚のルーベンスの画がある。実際には4枚あった。写真を取り損ねたが、三美神の下絵をここで目にすることは予期せぬことだったので得をした気分である。

① プッティの間
「ルーベンスの三美神」・・・1620~1623年頃に描かれた。板に油彩47×34㎝

フランドル絵画をこよなく愛した枢機卿レオポルド・デ・メディチは数多くの素描も含まれていた自身のコレクションの為に、このグリザイユを購入した。
実際、この小品は象牙の壺の装飾用下絵としてルーベンスが描いた作品である。
16世期から17世期にかけて、この技法は北部ヨーロッパに広く流行した。
ウフィッツ美術館より移動された。・・・ピティ美術館公認ガイドブックより

② マルスの間
「戦争の結果(戦争の惨禍ともよばれている)」・・・1637~1638年 カンヴァスに油彩 206×345㎝

ルーベンス『戦争の惨禍』ガイドは必ず立ち止まり説明をしている

ルーベンス『戦争の惨禍』ガイドは必ず立ち止まり説明をしている

トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチの為に制作された。
同じフランドルの画家でメディチ家の宮廷肖像画家であるステルマンスに送った手紙が残っている。(1638年)
ページ数が多いのでここでは割愛するが、この画についての全説明がなされている。

『戦争の惨禍』ルーベンスの平和への願いが込められている

『戦争の惨禍』ルーベンスの平和への願いが込められている

寓意を含んだタイトルの下にこの絵の主題が隠されている。
左端にあるヤヌス神殿の扉は開け放たれ、その前で黒衣のヨーロッパ(女性)が両手を挙げて天を仰いでいる。
中央ではヴィーナスがマルスを引き留めようとし、右手に抜き身を持ったマルスは復讐の女神に引かれ、
戦いに身を投じようとしている。
そして、書物を踏みにじり、芸術の女神と胸に子供を抱いた女性を蹴散らしている。

手紙の中で、ルーベンスはこの絵の意味を祖国を混乱に陥らせた30年戦争と関係づけて説明した。
ヨーロッパの国際情勢が悪化の一途を辿るのを目の前にしているルーベンスの平和への願望の強さが表れている。
苦い現実はルーベンスの脳裏を去らず深い憂慮の種であり続けた。
このキャンバス画はルーベンス晩年の傑作である。・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより

この画は晩年にルーベンスが描いた”幼児虐殺“と対になる作品である。
祭壇画ではないけれども、ルーベンスが平和を心より願って制作した大作であることを知ると決しておろそかにはできない。

 

③  「4人の哲学者」・・・1611~1612年 板に油彩、164×139㎝

ルーベンス『4人の哲学者』

ルーベンス『4人の哲学者』

少し前に亡くなった兄のフィリップ(左下)と師の哲学者ユスト・リピシウス(右から2番目)を記念して制作された。

イタリア留学時代をなつかしんでいるかのようなルーベンス『4人の哲学者』

イタリア留学時代をなつかしんでいるかのようなルーベンス『4人の哲学者』

 

 

 

 

 

 

セネカの頭像(ルーベンスがローマで購入)の横に4本のチューリップがあり、この4人の人生を象徴的に示している。(2本はすでに花が開いている。)
絨毯で覆われたテーブルの上に置かれた書物、背景に見えるパラティーノの丘、会話を交わす人物の身振りと眼差しにより、この群像肖像は17世紀の代表作の一つとなっている。左上の人物はルーベンス自身である。
・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより

④ ヴィーナスの間
「畑から戻る農夫」(1640年頃)板に油彩 121×194㎝

ルーベンス『畑から戻る農夫』

ルーベンス『畑から戻る農夫』

ルーベンスはマリネス近郊の風景を何度も描いているがここでは特に穏やかな自然が描き出され、農夫や動物の姿、木々のフォルムが夕焼けの金色に輝く光の中に浮かんでいる。
この絵はリシュリュー公が所有していたが、ハプスブルグ家によって購入され、ロレーヌ家のピエトロ・レオポルドが新しいトスカーナ大公となった1756年、彼と共にフィレンツェに運ばれた。・・・ピッティ美術館公認ガイドブックより

私はマリネスという場所の名前が腑に落ちなかったが「メヘレン」の地名はイタリア語ではこうなるのかも知れない。
絵の左方の遠くに見えるのがメヘレンの聖ロンバウト大聖堂と断定できるようである。
ルーベンスは亡くなる前の10年をアントワープの近郊の古い荘園ステーンを買い取りそこで暮らしていた。このステーンの荘園そのものの風景画を随分多く描いている。

その他にも、いくつかの肖像画があった。

ルーベンス『バッキンガム公』

ルーベンス『バッキンガム公』

ルーベンスの描いた肖像画

女性の肖像画

スペイン王女『イザベラ クララ エウヘニア』

『イザベラ クララ エウヘニア』(スペイン公女)

 

 

 

 

 

 

この美術館にはラファエッロの作品が数多くみられるのだが、とりわけ“聖母子”“聖母子と子どもの洗礼者ヨハネ”はただただ美しい。
言葉はこれ以上出てこない。

ラファエロ『聖母子像』

ラファエロ『聖母子像』

聖母子と子どもの洗礼者ヨハネ

ラファエロ『聖母子と子どもの洗礼者ヨハネ』