ヴェネツィア

 

ヴェネツィアはヴェネツィア共和国の中心地であり、地中海の交易で莫大な富を得て15世紀に全盛期であったとのことだが、当時のままの姿と変わっていないことを観光案内で読んだ。

リアルト橋からの景色

リアルト橋からの景色

リアルト橋は今でも観光の名所であり、カメラポイントであり特にアルノ川の夕景は美しい。立ち並ぶ売店にはカメオは見かけることが少なく、お土産にも流行り廃りがあって、時代性を感じる。

すでにここでは13世紀に、海外への定期商船の航路があったようだ。
遠くコンスタンチン―ブルから黒海へ行く船。キプロス、シリア、パレスチナへの航路、エジプトのアレキサンドリア航路、そして西はロンドンを経てフランドル航路があったとのこと。まさに経済世界の一大中心地であった。

ヴェネツィアで最も古いといわれるサン ジャコモ ディ リアルト教会

ヴェネツィアで最も古いといわれるサン ジャコモ ディ リアルト教会

栄えた第一の理由は、信教の自由都市であったこと。
すなわち、貿易の相手の国、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ギリシャ正教、プロテスタント、エジプトなど商売相手のいかなる宗教とも差別することなく付き合った。
そのおかげで香辛料、銀、顔料、木材、穀物、毛織物、絹織物、奴隷までも高価な商品が取引され商業は拡大されたという事である。まさにヴェネィアはコスモポリタン都市だった。

また、水の怖さを知っている彼らは 神の恩寵を願い、また感謝して多くの教会を建てているが、それはカトリックの法皇に属するものではなくて、修道院、聖人、聖なる遺物を祀り独自の教会に信仰が篤かった。ローマカトリックとは一線を引いていたようだ。

「ヴェネィアは神ならぬ人間の作った最高の街」と言った人がいた。
「ヴェネィアは海と結婚した」という言葉があり、その祝日もある。
水の上に浮かぶロマンチックな雰囲気を伴うが、その裏には集団に頼ることなく、自分で上手に生きようとするバイタリティを感じる。

ドゥ・カーレ宮殿内部

まばゆいばかりに光輝くドゥ・カーレ宮殿内部

ドゥ・カーレ宮殿と呼ばれるドージェの館は官邸であったが、大評議室に描かれた壁画をルーベンスも目にしたであろうか。
まばゆいばかりのルネッサンス・ヴェネィア派の画家たちの作品をみて、フランダースから来た若きルーベンスはさぞかし驚いたことであろう。

ティントレット『ヴェネツィア称揚』(1584年)

ティントレット『ヴェネツィア称揚』(1584年)

ルーベンスが影響を受けたといわれるティツィアーノ・ヴェチェッリオによる『祈りを捧げるグリマーニ総督』(1575-1576年頃)

ルーベンスが影響を受けたといわれるティツィアーノ・ヴェチェッリオによる『祈りを捧げるグリマーニ総督』(1575-1576年頃)

ティントレットの
『ヴェネツイア称揚』

ティツイアーノの
『祈りを捧げるグリマーニ総督』

パオロ・ヴェロネーゼの『ヴェネツィア礼賛』

パオロ・ヴェロネーゼ『ヴェネツィア礼賛』(1585年)

パオロ・ヴェロネーゼ『ヴェネツィア礼賛』(1585年)

他にも、まばゆい絵画が豪邸を飾っていた。
一方で、 地下には往時をしのばせて奴隷用の牢獄も備わっており、栄光に隠れた影の部分も知ることができた。
往時をしのぶよい機会となった。

ビザンチン様式のサン・マルコ寺院は、首長ドージェ個人が建てた教会である。
その丸い天井にかかれた黄金のモザイクが燦然と輝いていた。

光り輝くサン・マルコ寺院入り口

光り輝くサン・マルコ寺院入り口

ホテルをチェックアウトするとき ラゲージを運ぶことを依頼した。運河が目の前なので舟で運ぶのかと思っていたのだが・・・

若いポーターが大きなスーツケースを駅まで運んでくれたので、階段もラクチン

若いポーターが大きなスーツケースを駅まで運んでくれたので、階段もラクチン

ホテルの前に運び屋が待っていた。駅までラゲージ一個5ユーロだという。
アルバイト風の青年が二人で荷車に乗せて運んでくれた。かつての東京駅の赤坊さんを思いだし仕事師の有難かったこと!グランデ カナルと小さな運河に架かる橋も軽く超えることが出来た。階段状の橋の下には冷たい冬の鉛色の水面がうねっていた、ふと我が家の東京の目黒川の色と重なった。

サンタルチア駅に到着。
私には映画の思い出がある。キャサリーン・ヘッバーン主演の“旅情”である。
中年のアメリカ女性がヴェネチアに観光に来て、リアルト橋付近の商店主(ロッサナ・ブラッツイ―)としばしの恋が咲くのであるが、別れの時が来る。この男の俳優さんは私の大好きな映画“若草物語”の中のベア先生なのだ。
彼は非常にドイツ的と思っていたのにイタリア人でした! 別れを惜しむクライマックス場面がこの駅なのである。
甘くも美しいメロディーを思い出しながら私もお別れをした。

“I dream of a summer time~~~”

アリべ デルチ ヴェニス

サンタルチア駅

サンタルチア駅

ヴェネツィア到着

サンタルチア駅に到着

サンタルチア駅に到着!2月の後半であるが日中の温度も零下2度、その上アルプス越えの風は容赦なく吹き付け、観光客は寒さに身震いしていた。
運河に掛かった橋を越えなければ島に入れない。波打つ運河に掛かる階段をラゲージを引きながら上って、また下る一突如として群れの中から「うどんが食べたーい」の若き女子の日本語が耳に入ってきた。悲痛なる本音と聴いた。風が冷たくてとにかく寒いのである。やれやれとホテルでチェックインして、すぐ町を探索だ。

路地が入り組むヴェネツイアの街

カーニバルのお祭りも終わって、春を迎える前のオフシーズンであるのに予想以上に町は人が多い。賑わっているという言葉は使えないが若者の観光客が多い。町は古の栄光を“見てね”の歓迎ぶりである。
狭い路地がひしめきあっていて、さすがのスマホ扱いも手こずった。何しろ大通りと思うような通りが2メートル足らずの路地であるからその感覚は旅人には理解に時間がかかる。

道に迷いながらも船着き場にたどり着き水上バスの暖かい船室に座った時にはほっとした。サン・マルコ広場へ向かう。

15世紀半ばまで海洋国として遠くビザンチン帝国と交易をして繁盛した全盛期の建物がずらりと並び往時を偲ばせてくれる。4階建て、5階建ての建物には、事務所、会社、住居が同居しているようだが、それが一体となって美しい色調で水の上に浮かんでいる如く建っている。

水上バスからサンマルコ広場を望む

…ヴェネツィア共和国の歴史が頭をよぎる。元々はポー川の一帯で塩を作り、塩魚を生業とする漁村であったのが、北からの蛮族の襲来に備えて湿地帯に杭を埋め込み地盤をつくり陸に仕上げた。流れが淀まないように運河をめぐらして舟で往来するというユニークな発想が生まれた。
海を陸にかえていくオランダのアムステルダムの町づくりはヴェネチアと深い関係があるのではないか?

いずれにせよ、ルーベンスの目には、ヴェネツィアの街はどのように映ったのだろうか。
探索を続ける。

いざ、イタリアへ出発

陸路または航路でアントワープからヴェネツィアへ向かったルーベンス。

空路で、イタリアへ

一方、私たちのルーベンス追っかけ旅行は、成田からフィンランド航空を利用して、まずはヘルシンキ空港へ。

飛行時間は9時間かからず、体力的には楽に感じた。
ヘルシンキ空港は、最も近いヨーロッパとして、アジアからのハブ空港化のために大工事中。
乗り換え時間が1時間30分と短く少々不安を感じたが、案内板もわかりやすく、余裕を持ってトランジットすることができた。

トランジットの様子は、こちらに投稿したので、ご興味があれば、ご参照ください。
初めてのフィンランド航空 ヘルシンキ空港での乗り換え

快適なフレッチャロッサでの旅

都合上、私たちは、ローマ・フィレンツェを経てから、トレニタリア・フレッチャロッサでヴェネツィア入りを果たした。

ネットでの予約、駅では保安員の見回りやゲートの設置、そして時間通りの出発、社内ではドリンク・軽食のサービスと、現代の旅行は快適だ。

 

電車は、海の中の線路を走る

いよいよヴェネツイア

ルーベンスのイタリア滞在をたどる旅~序

 

ルーベンスも登ったであろうピンチョの丘から望んだローマの風景

バロック絵画の巨匠とよばれるベルギー・フランドルの画家ペーテル・パウル・ルーベンスは1600年から1608年の8年間イタリアに留学しました。23才から31歳までの青春時代と言ってよろしいでしょうか。

最初の訪問地はヴェニツィアだったようです。そして、マントヴァ公国の宮廷画家に召し抱えられます。マントヴァを拠点としてフィレンツェ、ローマ、ジェノヴァ(短期間には、ヴェローナ、ミラノなども挙げられますが)にも滞在しました。

今回私にイタリアのルーベンスを辿る旅に出たいという強い気持ちにさせたのは、アントワープでの彼の作品の原動力、源はイタリーの滞在で培われたものであることが分かったからでした。

天性の力量に加えてルーベンスの若き時代のほとばしるエネルギーによる模写力、精神力を育てた環境。ルネッサンスが花開き、教会建築、絵画などできらめくような反宗教改革の盛りのローマの町で呼吸していたルーベンスの姿を見つけたいと思ったのです。

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