ローマ~歴史を鑑みる

 

 

Foro Romano, Rome

 

久しく投稿せず失礼致しました。
ルーベンス展でお目見えできた作品については、また後日書くことにして、
とりあえず、若きルーベンスが滞在したイタリアへの旅行の話に戻します。

 

ローマは非常に特色のあるイタリアの首都である。

2000年前の円形闘技場コロッセオ

2000年前の円形闘技場コロッセオ

古代ローマ時代からの遺跡がごろごろ目につくし、共和制ローマ時代の埋もれた遺跡が掘りだされ、フォロ・ロマーノとして往時を偲ぶことが出来る。

ルーベンスがいたころは地中に埋もれたり、石泥棒が採掘したり誰も省みることがない所であったらしい。
キリスト教を弾劾したネロ皇帝の建てたコロセウムが2000年前の闘技場を彷彿させてくれる。
4層構造で800のアーチのある建造物は、日本で言うなら弥生時代に、ヴェスヴィオス火山の山麓にあった火山灰と石灰が混合したものが水中で硬化して強度を増すことにローマ人が目を留めたことで、建築が可能となった。ローマ水道橋、ローマ橋、パンテオン、カラカラ浴場・・・これらは、コンクリートという革命的材料の発明で造られ、ローマはヨーロッパの征服に乗り出すことに成功した。なるほど、コンクリートがすべての土台であったのだ。

ローマは宗教改革に対抗してカトリックの改革を推し進めることにより沢山教会を建て信者たちは引き寄せられた。しかしである。
その前にはすさまじい歴史があったことを頭にいれておきたい。
ヨーロッパ中が巻き込まれることに時間がかからなかったことにご注目あれ。

1515年にフランス王がミラノに侵攻。
1517年にルターが「95か条の議題」を掲げる。(宗教改革を宣言)
1521年4月、皇帝カール5世は、“ヴォルムス帝国議会”に召喚するが拒否され、両派の分裂が決定的になる。
1522年、ライン川の下流でドイツ騎士たちが、ローマカトリックと神聖ローマ帝国に対して「貧しい男爵の反逆」と呼ばれる反乱を起こした。
1524年~25年、西南ドイツで修道院の農民たちが、賦役・貢献の軽減、十分の一献金、農奴制の廃止を唱えていわゆる農民戦争が起こる。
初めのころは、ルターも応援していたが、農民たちのあまりの過激さに距離を置くようになり、ルターの支持層が農民中心よりも反カトリック、反皇帝派の諸侯、都市に変わっていった。
1527年 神聖ローマ帝国はスペイン王も兼ねていたので大変複雑怪奇なのだが、“ローマのごう略”といって、スペイン王の軍隊と神聖ローマ帝国の兵士の中でも主にプロテスタントの傭兵軍勢がイタリアに侵略して教皇領ローマを襲った。イタリア語で、“サッコ ディ ローマ”という。
指揮官が戦死し統制を失った兵士たちは市内へ乱入し、市民は殺害され、芸術品を略奪したので、“永遠の都”と呼ばれ15世紀ルネッサンス期に繁栄を誇った都市ローマは荒廃した。
この事件はカトリック世界に深刻な衝撃を与え、イタリアルネッサンスの終焉を告げることになった。

1534年、ロヨラによるイエズス会設立。
1536年、カルヴァン、ジュネーヴで改革に協力する。
1545年~63年、トリエント公会議が始まり、カトリックの再興協議会開始。
1562年、ユグノー(フランスのプロテスタント)虐殺の事件が起こり、98年までユグノ戦争が続く。
1568年、ネーデルランドの諸州の反乱(八十年戦争)
1572年、ローマカトリックによる、サン・バルテルミノの虐殺

ご覧の通り、日本では信じられないほどのカトリックとプロテスタントのいがみ合いが殺し合いにエスカレートしていた。
カトリックにとって、プロテスタントが異教徒で迫害対象となってしまったのだ。
このことは、ルーベンスがこのころ1577年にドイツのジーゲンで生まれていることに大きな影響を与えた。
なぜなら、両親が住んでいたアントワープは、カルヴァン派の本拠地であり、高学歴、知的レベルの高い人々に支持されていた。
いつの世にもあることだが、狂信的な群れがカトリックの教会の祭壇画、聖人像、マリア像を偶像と決めつけ焼き払った。
スペイン王は大激怒し、軍隊を送り鎮圧してプロテスタントを追い出したのだ。その中にルーベンスの両親もいたのだった。
今でいう、宗教難民ということか。

なお、
1563年に終わったトレント会議で、カトリックの正当性が確認された。
1585年に即位したシクトゥス5世は、わずか5年の在位期間にローマの町を一変させた。
新しい教会が建てられ、美術は民衆の信仰心を呼び起こした。
1600年の聖年では、数十万の巡礼者をローマに集めたらしい。カトリック快活の成功を祝すかのような熱気があった。
そのような時期にルーベンスはイタリアに滞在していたのだ。
ルーベンスにとっては、どこで戦争が起ころうと、留学の目的を達成する信念があったことだろう。

ヴェネツィア広場

ヴェネツ

その後のローマだが、
1796年からのナポレオンのイタリア支配時代を経て、イタリア王国建国、1870年法王領を併合してイタリア統一が成立した。

ローマに遷都、第2次世界大戦で敗戦し1948年共和制成立となって今に至る。まさに怒涛の歴史である。

それでも過去の都市国家の繁栄により成り立っている魅力的な都市群、イタリアはモザイクで美しく彩られている国なのだと実感している。

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

町の中に居れば遺跡が目につく、少しでも興味があれば いつの時代の物か自ずから調べたくなる、そして歴史に魅了されていくのである。

自分がどの時代に戻っても空想豊かに羽ばたくことが出来る…・そんな町がローマである。

荒廃したローマの都市の遺跡の発掘始まったのは実に20世紀に入ってからとのことである。
まだ手つかずの遺跡が目につく。新しい発見がこれからも世界を驚かしてくれるであろう。やはり 芸術の都は甦っている。

ルーベンスが1608年に去った後はローマの魅力も薄れていったかもしれない。
反比例するかのようにルーベンスの人生はこれから絶頂へと昇っていくのである。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ローマ~ヴァチカン

ルーベンス展も終わりに近づいているが、
こちらは、若きルーベンスを追いかけたイタリア旅行に話を戻そう。

カトリックの総本山はヴァチカンである。

ヴァチカン

ヴァチカン サンピエトロ寺院前

一国をなしていることは、我が国においても千代田区麹町に「ヴァチカン市国大使館」の表札がかかるお屋敷があることで納得する。

そのヴァチカン国がローマの都市の一角に存在することさえユニークである。
歴史は意外に新しく1929年のラテラーノ条約でヴァチカンは独立国になったとのことである。
テヴェレ河をはさんで町と反対側に位置しているが、サン・ピエトロ寺院はローマのこの地で殉教した聖ペテロの墓の上に建てられている。
ヴァチカンの土地自身が殉教者の広大な墓があったと言いう事である。
ルーベンスはこのサン・ピエトロ寺院の完成された姿は見ていないようである。
ラファエロ、ミケランジェロラの手を経て1626年に完成したらしい。広場の完成はもっと後のことである。

世界最大級の博物館がヴァチカン博物館である、法王の居城であるヴァチカン宮殿内にあるあらゆる宝物がここに展示され公開されている。
見学コースが出来ており、つながっているので指示に従って動いていれば総見できる仕組みである。
回廊にあるヘレニズム彫刻の傑作、ラオコーンに会うのに随分と時間がかかった。
何と最後のピオ・クレメンティーノ博物館にあった。ルーベンスの角度を変えての模写の実像に会えたのだ。

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

システィーナ礼拝堂は特に見逃せないので オフシーズンであるが7時半に入れるツアーに予約を入れた。
貸切状態といってよいほど静かに、長い時間をかけて堪能した。(写真撮影不可)
新法皇を決めるコンクラーベもこの間で行われる。
ルーベンスも仰向けになって見惚れたのであろう。

一番に入り、人のいない地図の間

一番に入り、人のいない地図の間

ラファエロ アテナイの学堂

ルーベンスも見たであろう、ラファエロ アテナイの学堂

ラファエロの間の天井

ラファエロの間の天井

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

圧巻の彫像や大理石の器

圧巻の彫像や大理石の器

人が絶えない美術館内

人が絶えない美術館内

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

サン・ピエトロ大聖堂内 ミケランジェロ『ピエタ』

サン・ピエトロ大聖堂内
ミケランジェロ『ピエタ』

ローマ~サンタ・マリア・ヴァリチェッラ教会(キエザ・ヌオーヴァ教会)

終にルーベンスの祭壇画にまみえることが出来た。現存の教会に飾られている。
サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァと言われるオラトリオ修道会)の主祭壇である。

“天使たちの崇敬を受ける聖母子の画像”
スレートに油彩 425×250㎝

伝統的な荘厳且つ華麗な教会の主祭壇に飾られていた。主祭壇の両脇に飾られている2枚も健在であった。
“聖グレゴリウス、聖マウルス、聖バビアヌス”   スレートに油彩 425×280㎝
“聖ドミティラ 聖ネレウス 聖アキレウス”    スレートに油彩 425×280㎝

楕円形の中がはっきり見えないかもしれないが、ここには聖母子像が描かれていて
取り壊す前の教会にあったもので大切に保護したいという事で祭壇画に組み入れる要望があったという事である。
それにしても主祭壇の装飾は、このように壮麗且つ豪華であるのに驚く。

キエザ・ヌォーヴァ教会

キエザ・ヌォーヴァ教会

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マスルス、聖パピアヌス』サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

キエザ・ヌォーヴァ教会主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇

キエザ・ヌォーヴァ祭壇

 

聖ヴァリチェッラ教会は地元に根付いていた。教会の扉が閉まることはなく、脇祭壇で朝8時にミサが始まったので、参加させていただいた。

白いガウンを着た先導者、お供がしずしずときて一同美しい声で、聖歌を捧げる。しばらくして、司祭と思しき方が登場してお話をなさる。イタリー語なので全く分からなかったが神の言葉であろう。祈り、聖歌、聖餐が始まり一人一人前に出て司祭から丸い御煎餅を口に入れていただいたり、手に置いて頂いたりした。2~30分くらいでしたが朝の通勤前、仕事の前、一日の始まりに参加する様子であった。50人くらいが集まったミサであった。

私は二日にかけて夕方と早朝とこの教会を訪れた。祭壇画の光のあたりかたを見たかったがあいにく曇り、雨のお天気であったので目的を達成できなかった。

告解を待っている方を見受けた。言葉が通じれば私も体験したかった。信者は毎週一度は告解をするらしい。聞くところによるとカトリック信者になることは厳しいらしい。小学校4,5年で宗教の時間が始まり、成人になる間に講義を受けなければならない。受講証明書がなければ結婚も許されないとのことである。
沢山の教会があり、派が違っていても行き着くところはバチカンとのことであった。

ルーベンスに告げたい。
祭壇画が400年も教会に大切に飾られていることを。
教会も地域の人々に守られていることを。

祭壇画は3枚とも美しく管理されているように見受けられたが 聞くところによるとここに飾られている祭壇画は全部モザイクであるとのことであった。真偽のほどは定かではないが守っていくことはそういうことかもしれないと素直に思った。
フィレンツェモザイクというのは、原色の色を薄く切って、画の図形に張り合わせていく・・・色合わせをするわけであるから、気の長い手仕事で、果てしなく時間がかかることである。
これ自身が美術品であるとミケランジェロが言っていたことを思い出す。
ここでも、色合いが教会に溶け込んでいて、少し離れて鑑賞する者には、油彩とモザイクの違いが判らない。違和感は全く持てなかった。
モザイクの方が価値が高く、手入れもいらず永久保存が効くという点で合理的である、そうなると、本物の芸術作品はいずこに保管されているのでしょうか?

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

キエザ・ヌォーヴァ主祭壇天井画

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『聖グレゴリウス、聖マウルス、聖パピアヌス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』1608年 キエザ・ヌォーヴァ

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『聖ドミティラ、聖ネレウス、聖アキレウス』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

ルーベンス『マドンナ・デ・ラ・ヴァリチェッラ』

二日間にわたってこの教会を訪れて、私はルーベンスと祭壇画とのふれあいを大切にした。そして、ルーベンスが8年間イタリアで培ったものが開花して、天才ぶりが発芽していたからこそ、現在ここに存在できたのだと思った。

この3枚の祭壇画を描き終わり 主祭壇画が大理石で装飾された神聖な除幕式にはルーベンスは参加出来なかった。母危篤の知らせが届いたのである。
1608年10月の末に急ぎ旅支度をして、マントヴァ公の宮廷画家も辞して、故郷アントワープに戻った。
そして、彼が63年の生涯を終えるまで、再びローマ、いいえ、イタリアを訪れることは叶わなかった。

 

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ正面の広場から

キエザ・ヌォーヴァ

キエザ・ヌォーヴァ

ローマ~1回目の訪問のその後

1602年にはマントヴァには帰っているようである。
1603年3月から4年夏まで ルーベンスは外交的性格を見込まれて マントヴァ公国の使節団としてスペイン王を訪問している。
この旅行のこともいずれ書かせていただきたいと願っている。

神聖ローマ帝国(ドイツ)が目と鼻の先に存在し、大国とローマ教皇庁との板挟みになりながら自国の権益を守るために、小国のマントヴァは、外交にはことのほか気を遣わねばならなかった。
日本からの天正使節団がローマを訪問すると聞けば、彼らを前もってもたなした。
スペインのような大国への貢ぎ物もゆるぎない関係を保つ上で大切な手段であった。
(今年5月に開催されていた“プラド美術館とヴェラスケス展”ではフェリーぺ4世がルーベンスの画を好まれ、政治上、宗教上、産業上でもフランドルと大変密な交流があったことを想起させてくれた。)

宮廷内の人間関係の上に、荒れた天気と王の移動が重なる苦難の旅行からマントヴァに帰ると、ゴンザーガ家から初めて祭壇画の注文が入った。
マントヴァのイエズス会の主祭壇に飾る“聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々”である。

この制作を終えて1605年、兄のいるローマを一目散に目指した。
ここにルーベンスのイタリア滞在中で最も幸せで、最も実り豊かな時期が存在する。
兄のフィリップと数か月共に過ごした至福の時があった。

この兄から、古美術の鑑定家になる素晴らしい知識を与えられた。
後にルーベンスは自ら美術品や骨董を収集するという新たな側面を担うことになる。

アントワープに帰国後、兄は1611年30代の若さで夭折してしまうので、ローマで受けた兄からの恩恵は、ルーベンスをより豊かに育てたと言ってよいであろう。

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む~兄と住んだ家もここから近い

ローマ訪問

遡ること400余年前、1601年の暮れにルーベンスは初めてローマを訪れた。
マントヴァ・ヴィンチェンツォ公から偉大な巨匠たちの作品の模写をするという名目で送り出されたのだ。
1602年4月にマントヴァに帰っているので5か月くらい滞在したという事になる。
その間にルーベンスは初めて古代美術の主要作品にじかに触れることができた。当時古代美術と言えば彫刻に限られていたとのこと。古代彫刻は古代ローマの遺跡の中に在ったり、地中から掘り起こされてはいたが、日の目を見なかったが、ルネッサンス期に入って人々の関心が高まっていった。
ローマは古典研究と古代遺物の発見の中心地となった。芸術の世界だけではなく、学問の世界でもヨーロッパの上流社会の人々にとって、何が何でもローマで学ぶことがその道の総仕上げと思われステイタスになっていたようだ。因みにルーベンスの父親もローマで法律の勉強をしていた。

『ラオコーン』像 ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館

『ラオコーン』像
ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館所蔵

若きルーベンスは古代ギリシャ、ローマの彫刻(アフリカの漁師、ラオコーン、女神像など)・・・彫刻に魅了され、熱心に研究し、デッサンを繰り返し、模写に明け暮れたようだ。

後の作品にこれらの模写の姿が多く出て来るが、コピーそのものではなくルーベンスの手による新たな人物が描き出されている。其の上、このころはコピーに対して現代のようには模倣、著作権云々とみなされることはなかった。当時の模写も多くが残っているが、それらの模写をチョークで描くことにより、輪郭線を柔らかくし、ペンよりもずっと巧みに肉体の感触を出すことが出来ることも自ら学んだ。さらに、モデルをいろいろな角度から描ききる意欲と興味に対するエネルギーを、ルーベンスは持っていた。

 

この半年間に、アルブレヒト大公から祭壇画を依頼された。

“聖女ヘレナと真の十字架”(1601年~2年)板に油彩 252×189cm
“愚弄されるキリスト”(1601年~2年)板に油彩 224×130cm

を描いたようだが、今はローマでは見られない。ローマで初めて手掛けた作品なのに・・・今はグラース市立病院礼拝堂にある。

2018年2月、私たちは真冬のさ中、東京を出発してローマに着いた。
荷物が出て来る待ち時間に洗面所を目指すと 壁とドアの色合いが目に留まった。壁は薄緑色、ドアは濃い緑色・・さすがである。ローマの玄関は爽やかであった。
空港からホテルまではお願いしておいたドライバーが待ち受けているので、私達のような女二人の旅行者には安心である。年間どの位個人客が訪れるのであろうか、このような便利な仕組みが整っているのは大変ありがたい。

ローマの夜景

車中からローマ見物が始まり説明を聞きながらバチカンに近いホテルに到着した。
さあ、ローマに到着、明日から探訪が始まる。