1609年 32歳 アントウェルペン市庁舎玄関を飾る『東方三博士の訪問』

話をルーベンスがイタリアからアントワープ(アントウェルペン)に帰った時代に戻します。

 

1609年(32歳)
*  ルーベンスは母親を失った悲しみのうちに1608年を送り1609年を迎えます。

この年初めにスペインとオランダの戦争を12年停止する宣言が出て、それまで疲弊していたアントワープ(アントウェルペン)の街もにぎわい始めました。

アントワープ(アントウェルペン)はスヘルデ川を遡る所にある港町ですので、北オランダにスヘルデ川の航行を閉ざされると商業は出来なくなります。解除により多くの人々も商売に戻ってきました。

ホテルの部屋に飾られていた額絵から当時の様子が伺える

ホテルの部屋に飾られていた額絵から当時の様子が伺える

 

その上、ルーベンスにとって嬉しいニュースが入ります。
1563年に終わったトリエント公会議でカトリックの正統性が確認され、新しい宗教的情熱に燃えたイエズス会などの新教団の勢いが増し、アントワープ(アントウェルペン)にもおしよせました。
プロテスタントが偶像崇拝として排撃したキリスト教の像、彫刻、祭壇画など宗教美術が再認識されたおかげで、アントワープ(アントウェルペン)の破壊された教会の立て替え建築、修理は勿論、教会内を修飾する聖人の彫刻、祭壇画の注文がブームとなり舞い込むようになりました。

その中でルーベンスは指導的な役割を果たすことになります。いよいよルーベンスの出番です。

 

残念ながら、修復中でした

残念ながら、市庁舎は修復中でした

* 1609年早々にアントワープ市長のニコラース・ロコックスから市庁舎の大会議室(スターテン カーメル)に『東方3博士の訪問』いわゆるマギ(3賢王の礼拝)の絵画を描くことを依頼されました。
大変名誉な仕事でした。なにしろ、この部屋でスペインとオランダの間で12年間の休戦条約が締結されるのですから・お祝いです。
(マタイによる福音書2章9節~11節)

主イエスの生誕のお祝いにベツレヘムを訪れた賢人たちの主題は、「平和の君」であるイエスと平和条約締結のための使節たちを迎える主題と合致するところがありました。

暗い馬小屋ですが光に照らし出される聖母子は華やかな清らかな姿で描かれています。
多くの客人を迎える絵画に相応しく美しくて大変好評でしたので、数年するとこの画はスペイン王に献上されました。
今はプラド美術館で見ることが出来ます。

P.P.Rubens「東方三博士の訪問」1609年、1628-29年 プラド美術館

 

母危篤の知らせを受けて

長い間、アップできず申し訳ありません。
若きルーベンスのイタリアでの充実した修行生活をこれまでお伝えしてまいりました。
引き続き、その後のルーベンスの人生についてご紹介していきたいと思います。

 

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

ローマのサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会の主祭壇画が完成するのを待っていたかのように72才の母、マリア・ペイぺリンクスが重い喘息で危篤状態に陥ったとの知らせを受けて、1608年10月、ルーベンスは馬に飛び乗ってローマを後にしたと書かれています。

イタリアに着いたとき、ルーベンスは23才の若さで、画家への夢と情熱に燃えていました。

ルーベンスは、画家としてイタリアのマントヴァの宮廷に職をついていましだが、彼の人柄や知性は外交使節としても重宝がられ、当時の有数の富豪や著名人とのコネクションを得ることができました。この経験は後に、ヨーロッパの主要な宮廷との関りを持った際に非常に助けとなりました。

また、芸術面では、古代彫刻、ルネッサンスの傑作、同時代の芸術家の仕事を学ぶことにより、イタリアの伝統を吸収することができたといえましょう。過去の形態やイメージを借用し、変容させ、ルーベンスの天才的想像力の開花の時期を迎えることとなります。

8年後、円熟した大人として、イタリアの画家たちと並んで名声を得、練達の芸術家としてこの国を後にしたのです。

 

アントワープに帰郷した後ですが、
ローマへ戻る意思が固まる前に次から次へと彼を引き留める要素が噴出して、結局ローマに戻ることなく、ルーベンスはフランダースの画家として一生を終えることになりました。それには、当時の時代背景が彼を離さなかったのだと思いますので、ここでそのことについて触れたいと思います。

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ)より)

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ」より)

 

1517年のマルチン・ルターによる宗教改革後、16世紀末にはヨーロッパのおよそ半分が公式にプロテスタント国になっていましたが、カトリック側の危機感に迫った対抗宗教改革対策により、17世紀初めにはその割合は大幅に減り、多くの領主が結局はカトリックに復帰していました。
そして、カトリック教会の改革運動の大半が、イグナチウス・デ・ロヨラーのような才能豊かな個人が宣教と教育の専門の修道会であるイエズス会を創設し、彼と修道会の人々により推進されたのです。

1566年のカルヴァン派信者によるイコノクラスム(聖像破壊運動)や長年の戦いによって大きな被害を受けた教会堂や宗教建築の修復に、カトリックは懸命に取り組みました。ネーデルランドのアルバート・イサベラ大公夫妻もその取り組みを支援していたため、南部ネーデルランドでは、宗教美術と宗教建築の一大ブームが起こりかけていたのです。

イタリアから戻ったルーベンスはそのような中で指導的役割を担うことになったため、フランドルを離れることができなかったようです。
近隣のブルッセル、メッヘレン、ゲントなどからも祭壇画制作の注文が入ることにより名声を確立し、北ヨーロッパ随一の画家とみなされるようになりました。
ルーベンスは、キリスト、聖人、使徒、聖書の中の女性、天使たちを人間らしく満ち満ちたものとして描き、人々の名声を勝ち得ていったのでした。