母危篤の知らせを受けて

長い間、アップできず申し訳ありません。
若きルーベンスのイタリアでの充実した修行生活をこれまでお伝えしてまいりました。
引き続き、その後のルーベンスの人生についてご紹介していきたいと思います。

 

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

ローマのサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会の主祭壇画が完成するのを待っていたかのように72才の母、マリア・ペイぺリンクスが重い喘息で危篤状態に陥ったとの知らせを受けて、1608年10月、ルーベンスは馬に飛び乗ってローマを後にしたと書かれています。

イタリアに着いたとき、ルーベンスは23才の若さで、画家への夢と情熱に燃えていました。

ルーベンスは、画家としてイタリアのマントヴァの宮廷に職をついていましだが、彼の人柄や知性は外交使節としても重宝がられ、当時の有数の富豪や著名人とのコネクションを得ることができました。この経験は後に、ヨーロッパの主要な宮廷との関りを持った際に非常に助けとなりました。

また、芸術面では、古代彫刻、ルネッサンスの傑作、同時代の芸術家の仕事を学ぶことにより、イタリアの伝統を吸収することができたといえましょう。過去の形態やイメージを借用し、変容させ、ルーベンスの天才的想像力の開花の時期を迎えることとなります。

8年後、円熟した大人として、イタリアの画家たちと並んで名声を得、練達の芸術家としてこの国を後にしたのです。

 

アントワープに帰郷した後ですが、
ローマへ戻る意思が固まる前に次から次へと彼を引き留める要素が噴出して、結局ローマに戻ることなく、ルーベンスはフランダースの画家として一生を終えることになりました。それには、当時の時代背景が彼を離さなかったのだと思いますので、ここでそのことについて触れたいと思います。

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ)より)

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ」より)

 

1517年のマルチン・ルターによる宗教改革後、16世紀末にはヨーロッパのおよそ半分が公式にプロテスタント国になっていましたが、カトリック側の危機感に迫った対抗宗教改革対策により、17世紀初めにはその割合は大幅に減り、多くの領主が結局はカトリックに復帰していました。
そして、カトリック教会の改革運動の大半が、イグナチウス・デ・ロヨラーのような才能豊かな個人が宣教と教育の専門の修道会であるイエズス会を創設し、彼と修道会の人々により推進されたのです。

1566年のカルヴァン派信者によるイコノクラスム(聖像破壊運動)や長年の戦いによって大きな被害を受けた教会堂や宗教建築の修復に、カトリックは懸命に取り組みました。ネーデルランドのアルバート・イサベラ大公夫妻もその取り組みを支援していたため、南部ネーデルランドでは、宗教美術と宗教建築の一大ブームが起こりかけていたのです。

イタリアから戻ったルーベンスはそのような中で指導的役割を担うことになったため、フランドルを離れることができなかったようです。
近隣のブルッセル、メッヘレン、ゲントなどからも祭壇画制作の注文が入ることにより名声を確立し、北ヨーロッパ随一の画家とみなされるようになりました。
ルーベンスは、キリスト、聖人、使徒、聖書の中の女性、天使たちを人間らしく満ち満ちたものとして描き、人々の名声を勝ち得ていったのでした。