ローマ~ストラーダ・デラ・クローチェ

ルーベンスがイタリアに留学していた頃(1600~1608年)のローマはどんな様子であったのだろうか。

前述の通り、1600年の聖年には、数十万人の巡礼者をローマに集め、カトリック改革の成功を祝した。
ローマは急速に復興し、落ち着きを取り戻した良い時期であった。

フィリップ兄と過ごしたという土地のあたりを歩いていると、驚くことに同じ通りの名前を見つけることができた。

「ストラーダ・デラ・クローチェ」

400年前と変わらず存在していたのである。

北の玄関口ポポロ門をくぐり、ポポロ広場を通ってスペイン広場に向かう途中にその道はある。

 

北の玄関口ポポロ門 ルーベンスも通ったことだろう

北の玄関口ポポロ門。外側から市内を望む。外側のこの建物はミケランジェロによって、1565年に建てられた。正面の4組の円柱は旧サン・ピエトロ大聖堂から移設されたものとのこと。

若きルーベンスも志高く、気持ちを高ぶらせてこの門を通ったことだろう。

ポポロ広場から、スペイン広場に続くバブイーノ通りを歩く。
高級店が多く、夏には観光客が多い事だろうが、あいにくの天気に人もまばらだった。

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

スペイン広場に出ようかというところに、
「ストラーダ・デラ・クローチェ」すなわち「クローチェ通り」があった。
通りの角の建物が工事の為足場を組んでおり、通り名をきれいに写真に撮れなかったのは残念。

クローチェ通り入り口

クローチェ通り入り口

足場が組まれていた・・・

足場が組まれていた・・・

 

このあたりに、家を借りて一緒に暮らし、召使いも二人雇っていたそうだ。

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

この地域は、一帯は当時ローマ市の交通の拠点であった。

 

当時マントヴァ公国の財政は窮乏状態で、給料も遅れがちだったらしく、
かえってルーベンスは束縛されずにローマでの滞在が長引くことにもとやかく言われなったようだ。

二人の息子がローマで暮らしていけるのは、やはり実家からの仕送りがあったようだ。
賢母の存在が大きかったようである。

スペイン広場

すぐ近くにスペイン広場がある

 

 

ローマ~歴史を鑑みる

 

 

Foro Romano, Rome

 

久しく投稿せず失礼致しました。
ルーベンス展でお目見えできた作品については、また後日書くことにして、
とりあえず、若きルーベンスが滞在したイタリアへの旅行の話に戻します。

 

ローマは非常に特色のあるイタリアの首都である。

2000年前の円形闘技場コロッセオ

2000年前の円形闘技場コロッセオ

古代ローマ時代からの遺跡がごろごろ目につくし、共和制ローマ時代の埋もれた遺跡が掘りだされ、フォロ・ロマーノとして往時を偲ぶことが出来る。

ルーベンスがいたころは地中に埋もれたり、石泥棒が採掘したり誰も省みることがない所であったらしい。
キリスト教を弾劾したネロ皇帝の建てたコロセウムが2000年前の闘技場を彷彿させてくれる。
4層構造で800のアーチのある建造物は、日本で言うなら弥生時代に、ヴェスヴィオス火山の山麓にあった火山灰と石灰が混合したものが水中で硬化して強度を増すことにローマ人が目を留めたことで、建築が可能となった。ローマ水道橋、ローマ橋、パンテオン、カラカラ浴場・・・これらは、コンクリートという革命的材料の発明で造られ、ローマはヨーロッパの征服に乗り出すことに成功した。なるほど、コンクリートがすべての土台であったのだ。

ローマは宗教改革に対抗してカトリックの改革を推し進めることにより沢山教会を建て信者たちは引き寄せられた。しかしである。
その前にはすさまじい歴史があったことを頭にいれておきたい。
ヨーロッパ中が巻き込まれることに時間がかからなかったことにご注目あれ。

1515年にフランス王がミラノに侵攻。
1517年にルターが「95か条の議題」を掲げる。(宗教改革を宣言)
1521年4月、皇帝カール5世は、“ヴォルムス帝国議会”に召喚するが拒否され、両派の分裂が決定的になる。
1522年、ライン川の下流でドイツ騎士たちが、ローマカトリックと神聖ローマ帝国に対して「貧しい男爵の反逆」と呼ばれる反乱を起こした。
1524年~25年、西南ドイツで修道院の農民たちが、賦役・貢献の軽減、十分の一献金、農奴制の廃止を唱えていわゆる農民戦争が起こる。
初めのころは、ルターも応援していたが、農民たちのあまりの過激さに距離を置くようになり、ルターの支持層が農民中心よりも反カトリック、反皇帝派の諸侯、都市に変わっていった。
1527年 神聖ローマ帝国はスペイン王も兼ねていたので大変複雑怪奇なのだが、“ローマのごう略”といって、スペイン王の軍隊と神聖ローマ帝国の兵士の中でも主にプロテスタントの傭兵軍勢がイタリアに侵略して教皇領ローマを襲った。イタリア語で、“サッコ ディ ローマ”という。
指揮官が戦死し統制を失った兵士たちは市内へ乱入し、市民は殺害され、芸術品を略奪したので、“永遠の都”と呼ばれ15世紀ルネッサンス期に繁栄を誇った都市ローマは荒廃した。
この事件はカトリック世界に深刻な衝撃を与え、イタリアルネッサンスの終焉を告げることになった。

1534年、ロヨラによるイエズス会設立。
1536年、カルヴァン、ジュネーヴで改革に協力する。
1545年~63年、トリエント公会議が始まり、カトリックの再興協議会開始。
1562年、ユグノー(フランスのプロテスタント)虐殺の事件が起こり、98年までユグノ戦争が続く。
1568年、ネーデルランドの諸州の反乱(八十年戦争)
1572年、ローマカトリックによる、サン・バルテルミノの虐殺

ご覧の通り、日本では信じられないほどのカトリックとプロテスタントのいがみ合いが殺し合いにエスカレートしていた。
カトリックにとって、プロテスタントが異教徒で迫害対象となってしまったのだ。
このことは、ルーベンスがこのころ1577年にドイツのジーゲンで生まれていることに大きな影響を与えた。
なぜなら、両親が住んでいたアントワープは、カルヴァン派の本拠地であり、高学歴、知的レベルの高い人々に支持されていた。
いつの世にもあることだが、狂信的な群れがカトリックの教会の祭壇画、聖人像、マリア像を偶像と決めつけ焼き払った。
スペイン王は大激怒し、軍隊を送り鎮圧してプロテスタントを追い出したのだ。その中にルーベンスの両親もいたのだった。
今でいう、宗教難民ということか。

なお、
1563年に終わったトレント会議で、カトリックの正当性が確認された。
1585年に即位したシクトゥス5世は、わずか5年の在位期間にローマの町を一変させた。
新しい教会が建てられ、美術は民衆の信仰心を呼び起こした。
1600年の聖年では、数十万の巡礼者をローマに集めたらしい。カトリック快活の成功を祝すかのような熱気があった。
そのような時期にルーベンスはイタリアに滞在していたのだ。
ルーベンスにとっては、どこで戦争が起ころうと、留学の目的を達成する信念があったことだろう。

ヴェネツィア広場

ヴェネツ

その後のローマだが、
1796年からのナポレオンのイタリア支配時代を経て、イタリア王国建国、1870年法王領を併合してイタリア統一が成立した。

ローマに遷都、第2次世界大戦で敗戦し1948年共和制成立となって今に至る。まさに怒涛の歴史である。

それでも過去の都市国家の繁栄により成り立っている魅力的な都市群、イタリアはモザイクで美しく彩られている国なのだと実感している。

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

町の中に居れば遺跡が目につく、少しでも興味があれば いつの時代の物か自ずから調べたくなる、そして歴史に魅了されていくのである。

自分がどの時代に戻っても空想豊かに羽ばたくことが出来る…・そんな町がローマである。

荒廃したローマの都市の遺跡の発掘始まったのは実に20世紀に入ってからとのことである。
まだ手つかずの遺跡が目につく。新しい発見がこれからも世界を驚かしてくれるであろう。やはり 芸術の都は甦っている。

ルーベンスが1608年に去った後はローマの魅力も薄れていったかもしれない。
反比例するかのようにルーベンスの人生はこれから絶頂へと昇っていくのである。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ローマ~ヴァチカン

ルーベンス展も終わりに近づいているが、
こちらは、若きルーベンスを追いかけたイタリア旅行に話を戻そう。

カトリックの総本山はヴァチカンである。

ヴァチカン

ヴァチカン サンピエトロ寺院前

一国をなしていることは、我が国においても千代田区麹町に「ヴァチカン市国大使館」の表札がかかるお屋敷があることで納得する。

そのヴァチカン国がローマの都市の一角に存在することさえユニークである。
歴史は意外に新しく1929年のラテラーノ条約でヴァチカンは独立国になったとのことである。
テヴェレ河をはさんで町と反対側に位置しているが、サン・ピエトロ寺院はローマのこの地で殉教した聖ペテロの墓の上に建てられている。
ヴァチカンの土地自身が殉教者の広大な墓があったと言いう事である。
ルーベンスはこのサン・ピエトロ寺院の完成された姿は見ていないようである。
ラファエロ、ミケランジェロラの手を経て1626年に完成したらしい。広場の完成はもっと後のことである。

世界最大級の博物館がヴァチカン博物館である、法王の居城であるヴァチカン宮殿内にあるあらゆる宝物がここに展示され公開されている。
見学コースが出来ており、つながっているので指示に従って動いていれば総見できる仕組みである。
回廊にあるヘレニズム彫刻の傑作、ラオコーンに会うのに随分と時間がかかった。
何と最後のピオ・クレメンティーノ博物館にあった。ルーベンスの角度を変えての模写の実像に会えたのだ。

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

システィーナ礼拝堂は特に見逃せないので オフシーズンであるが7時半に入れるツアーに予約を入れた。
貸切状態といってよいほど静かに、長い時間をかけて堪能した。(写真撮影不可)
新法皇を決めるコンクラーベもこの間で行われる。
ルーベンスも仰向けになって見惚れたのであろう。

一番に入り、人のいない地図の間

一番に入り、人のいない地図の間

ラファエロ アテナイの学堂

ルーベンスも見たであろう、ラファエロ アテナイの学堂

ラファエロの間の天井

ラファエロの間の天井

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

圧巻の彫像や大理石の器

圧巻の彫像や大理石の器

人が絶えない美術館内

人が絶えない美術館内

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

サン・ピエトロ大聖堂内 ミケランジェロ『ピエタ』

サン・ピエトロ大聖堂内
ミケランジェロ『ピエタ』

ルーベンス展に行ってまいりました!

ルーベンス展が始まりました

ルーベンス展が始まりました

今回の「ルーベンス展―バロックの誕生」は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みであることを開催当事者は告げます。
駐日イタリア大使は「ルーベンスはイタリアで育てられた「養子」としてこの国の顔を持つと同時に、ヨーロッパをまたにかけて活動しました。」と述べています。
そしてベルギー王国大使は、「ルーベンスは古代の美術やイタリアの巨匠たちから大きな影響を受けるとともに、彼もまた何世代もの芸術家に影響を与え、まったく新しい芸術潮流の基礎を築きました」と誇りを記しています。

アンナ ビアンコ女史は今回の展示の監修者のお一人で、ローマ出身の美術史家であられます。
展覧会初日になさった講演のほんの一部を記します。

1600年、ルーベンスはアントワープから馬と船を使い一か月でベネチアに到着したようです。
今回の展覧は、ミラノで開催された「ルーベンス展―バロックの誕生」を基にしています。
この刺激あふれるイタリアで、ルーベンスがどれだけのものを吸収したかが今回のテーマです。
時代別ではなくて7つのセクションに分けましたので、それぞれにルーベンスの世界を感じていただきたいと思います。・・・・・

「ルーベンス展ーバロックの誕生」図録より ルーベンス「聖アンデレの殉教」

図録より
ルーベンス「聖アンデレの殉教」

Ⅱの「英雄としての聖人たち」ではスペインから「聖アンドレの殉教」が来ていますが、ルーベンスはこの壮大な作品(1638年)をもって彼の宗教画家としての活動を終えました。門外不出に等しいこの絵を見る機会は私どもも最初にして最後かもしれません。ルーベンスは新しい宗教画を革命的な特徴をもって描出しました。絵が何を語っているのか、“手“の表情をよく見ていただくと一人ひとりが何を話しているか伝わってきます。

Ⅴの神話のヘラクレスは、カラカラ浴場から見つかったファルネーゼのヘラクレスの彫像がもとになっていまして力の表現として使われました。

2018年2月 ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れました。ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館にて「ラオコーン像」

2018年2月
ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れた
ピオ・クレメンティーノ美術館(ヴァチカン)「ラオコーン像」

ラオコーンや、ヘラクレスなどなどの埋もれていた古代彫刻がルネッサンスにより脚光を浴び、それらを目にしたルーベンスはひたすらデッサンを繰り返しました。表情ある肉体として多くの作品に堂々と生き返っています。・・・・・・・・

 

 

最後にビアンコさんが映像に映し出した作品は「戦争の悲惨」でした。この作品はフィレンツェのピッティ美術館所蔵の作品で今回は来ていません。でもこの作品で締めくくられました。
ルーベンスはヨーロッパの絶え間ない戦争を憂い平和を心から希求しこの作品を描きました。
彼は自分は、世界の市民、世界中を祖国とする人間であると話したそうです。彼の人間愛がどれほど大きかったかがこの言葉で分かります。
ビアンコさんはこのように締めくくられました。

ルーベンス『戦争の惨禍』ガイドは必ず立ち止まり説明をしている

ルーベンス『戦争の惨禍(戦争の悲惨)』2018年2月に訪れたピッティ宮殿パラディ―ナ美術館(フィレンツェ)にて

私の感想としては、ルーベンスはイタリアを熱愛していました。
この展覧会が企画されたことは、ルーベンスにとって まさに“ご恩返し”に値することで天へ舞うほどの喜びではないでしょうか。
素晴らしい展覧会の一言に尽きます。
イタリア滞在の8年間にこのように沢山の作品が描かれていてそれを目に出来たことは何よりの私の収穫でした。

イタリアとルーベンスに乾杯!!

いよいよルーベンス展が明日から

投稿が滞っているうちに、ついに『ルーベンス展―バロックの誕生』が開幕します。

私たちが今年の2月に、若きルーベンスを追いかけてイタリアに行った目的と同様、
ルーベンスがイタリアで吸収したこと、そして、イタリア・バロックとの関係を紹介して下さるそうです。
学問的に取り上げていただき、とても楽しみです。

4Kビジョンに、アントワープの大聖堂の祭壇画が映し出されたり、
3mを超える大作が紹介されているとのこと、
これまで「ルーベンスの魅力は、祭壇画にあると思っていて、日本ではお目にかかれない」と思っていたので、
どのようにルーベンスの魅力を伝えるべく工夫しているのか、楽しみです。

展覧会の感想はまた後日、ご報告したいと思います。

 

『ルーベンス展―バロックの誕生』は、来年1月20日(日)まで、国立西洋美術館にて。

公式サイト⇒http://www.tbs.co.jp/rubens2018/