母に宛てたローマからの手紙~その2

母上、

いま、フィリップ兄さんと一緒に暮らすことができました。
スペイン広場に近いストラーダ デ・ラ クローチェに快適な一軒家です。
これも母上の援助のおかげと深く感謝いたします。

この頃は ゴンザーガ家の財政もかなり苦しいらしく私へのお給金も滞りがちなのです。
そのことは私には都合の良いことでもあるのです。
私を縛り付けず自由にローマにいることを暗黙の裡に許してくださっているからです。

ボルゲーゼ枢機卿、ジェノヴァ出身のジャコモ・セッラ僧正というような政治力もお金もある偉い方々にお会いして、
美術品のコレクションを拝見できることはローマにいなくては出来ないことです。
感激しております。

ポールより、     1605年

多くの芸術家のパトロンであったボルゲーゼ枢機卿の別荘がボルゲーゼ美術館として多くのコレクションを展示

多くの芸術家のパトロンであったボルゲーゼ枢機卿の別荘。現在はボルゲーゼ美術館として多くのコレクションを展示。

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

母に宛てたローマからの手紙~その1

母上、ご無沙汰をして申し訳ございません。お元気のことでしょう。

私は今、待望のローマに来ております。
ヴィンチェンツォ公のお計らいで ローマで作品の模写の勉強をしています。
父上もここで勉強したと思うと感慨深いものがあります。

古代彫刻にも驚かされますが歴史上の人物が大変身近に感じられることにもびっくりしております。

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

例えば 聖書に出てくる残虐なネロ皇帝です。
彼は皇帝ですから広大な土地を所有し、大御殿に住んでいたことが目で見て分かります。

コロッセオ

コロッセオ都市計画を企画するため、ローマの街に大火を起させ、それをキリスト教徒のせいにして迫害しました。

コロッセオはエルサレムから2万人のキリスト教徒を奴隷として連れてきて2年間で建造されたと聞きました。
そのコロッセオはキリスト教徒の迫害の場所であったり、戦車の競争をしたり、ライオンの餌食になるキリスト教徒の場所だったようです。
そのころに生きていなくてよかったと思います。

 

ヴァチカンにある古代彫刻

ヴァチカンにある古代彫刻

ローマには古代ギリシャの美術品がたくさん来ています。
今はオスマントルコに支配されているので、アテネにも行けませんのでここで見られるのは幸いです。
彫刻像が物語になっていて動きがあり、迫力があるのです。
一生懸命模写をしています。縦、横、斜め、上、後ろからとあらゆる方向から描くことをしています。
いくら紙があっても足りないくらいです。楽しくて仕方ありません、

母上もどうぞお体気を付けてください、

あなたのポールより、
1601年秋

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

ローマ~ストラーダ・デラ・クローチェ

ルーベンスがイタリアに留学していた頃(1600~1608年)のローマはどんな様子であったのだろうか。

前述の通り、1600年の聖年には、数十万人の巡礼者をローマに集め、カトリック改革の成功を祝した。
ローマは急速に復興し、落ち着きを取り戻した良い時期であった。

フィリップ兄と過ごしたという土地のあたりを歩いていると、驚くことに同じ通りの名前を見つけることができた。

「ストラーダ・デラ・クローチェ」

400年前と変わらず存在していたのである。

北の玄関口ポポロ門をくぐり、ポポロ広場を通ってスペイン広場に向かう途中にその道はある。

 

北の玄関口ポポロ門 ルーベンスも通ったことだろう

北の玄関口ポポロ門。外側から市内を望む。外側のこの建物はミケランジェロによって、1565年に建てられた。正面の4組の円柱は旧サン・ピエトロ大聖堂から移設されたものとのこと。

若きルーベンスも志高く、気持ちを高ぶらせてこの門を通ったことだろう。

ポポロ広場から、スペイン広場に続くバブイーノ通りを歩く。
高級店が多く、夏には観光客が多い事だろうが、あいにくの天気に人もまばらだった。

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

ポポロ広場からスペイン広場へ続くバブイーノ通り

スペイン広場に出ようかというところに、
「ストラーダ・デラ・クローチェ」すなわち「クローチェ通り」があった。
通りの角の建物が工事の為足場を組んでおり、通り名をきれいに写真に撮れなかったのは残念。

クローチェ通り入り口

クローチェ通り入り口

足場が組まれていた・・・

足場が組まれていた・・・

 

このあたりに、家を借りて一緒に暮らし、召使いも二人雇っていたそうだ。

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

フィリップ兄とこの辺りに住んだ

この地域は、一帯は当時ローマ市の交通の拠点であった。

 

当時マントヴァ公国の財政は窮乏状態で、給料も遅れがちだったらしく、
かえってルーベンスは束縛されずにローマでの滞在が長引くことにもとやかく言われなったようだ。

二人の息子がローマで暮らしていけるのは、やはり実家からの仕送りがあったようだ。
賢母の存在が大きかったようである。

スペイン広場

すぐ近くにスペイン広場がある

 

 

ローマ~歴史を鑑みる

 

 

Foro Romano, Rome

 

久しく投稿せず失礼致しました。
ルーベンス展でお目見えできた作品については、また後日書くことにして、
とりあえず、若きルーベンスが滞在したイタリアへの旅行の話に戻します。

 

ローマは非常に特色のあるイタリアの首都である。

2000年前の円形闘技場コロッセオ

2000年前の円形闘技場コロッセオ

古代ローマ時代からの遺跡がごろごろ目につくし、共和制ローマ時代の埋もれた遺跡が掘りだされ、フォロ・ロマーノとして往時を偲ぶことが出来る。

ルーベンスがいたころは地中に埋もれたり、石泥棒が採掘したり誰も省みることがない所であったらしい。
キリスト教を弾劾したネロ皇帝の建てたコロセウムが2000年前の闘技場を彷彿させてくれる。
4層構造で800のアーチのある建造物は、日本で言うなら弥生時代に、ヴェスヴィオス火山の山麓にあった火山灰と石灰が混合したものが水中で硬化して強度を増すことにローマ人が目を留めたことで、建築が可能となった。ローマ水道橋、ローマ橋、パンテオン、カラカラ浴場・・・これらは、コンクリートという革命的材料の発明で造られ、ローマはヨーロッパの征服に乗り出すことに成功した。なるほど、コンクリートがすべての土台であったのだ。

ローマは宗教改革に対抗してカトリックの改革を推し進めることにより沢山教会を建て信者たちは引き寄せられた。しかしである。
その前にはすさまじい歴史があったことを頭にいれておきたい。
ヨーロッパ中が巻き込まれることに時間がかからなかったことにご注目あれ。

1515年にフランス王がミラノに侵攻。
1517年にルターが「95か条の議題」を掲げる。(宗教改革を宣言)
1521年4月、皇帝カール5世は、“ヴォルムス帝国議会”に召喚するが拒否され、両派の分裂が決定的になる。
1522年、ライン川の下流でドイツ騎士たちが、ローマカトリックと神聖ローマ帝国に対して「貧しい男爵の反逆」と呼ばれる反乱を起こした。
1524年~25年、西南ドイツで修道院の農民たちが、賦役・貢献の軽減、十分の一献金、農奴制の廃止を唱えていわゆる農民戦争が起こる。
初めのころは、ルターも応援していたが、農民たちのあまりの過激さに距離を置くようになり、ルターの支持層が農民中心よりも反カトリック、反皇帝派の諸侯、都市に変わっていった。
1527年 神聖ローマ帝国はスペイン王も兼ねていたので大変複雑怪奇なのだが、“ローマのごう略”といって、スペイン王の軍隊と神聖ローマ帝国の兵士の中でも主にプロテスタントの傭兵軍勢がイタリアに侵略して教皇領ローマを襲った。イタリア語で、“サッコ ディ ローマ”という。
指揮官が戦死し統制を失った兵士たちは市内へ乱入し、市民は殺害され、芸術品を略奪したので、“永遠の都”と呼ばれ15世紀ルネッサンス期に繁栄を誇った都市ローマは荒廃した。
この事件はカトリック世界に深刻な衝撃を与え、イタリアルネッサンスの終焉を告げることになった。

1534年、ロヨラによるイエズス会設立。
1536年、カルヴァン、ジュネーヴで改革に協力する。
1545年~63年、トリエント公会議が始まり、カトリックの再興協議会開始。
1562年、ユグノー(フランスのプロテスタント)虐殺の事件が起こり、98年までユグノ戦争が続く。
1568年、ネーデルランドの諸州の反乱(八十年戦争)
1572年、ローマカトリックによる、サン・バルテルミノの虐殺

ご覧の通り、日本では信じられないほどのカトリックとプロテスタントのいがみ合いが殺し合いにエスカレートしていた。
カトリックにとって、プロテスタントが異教徒で迫害対象となってしまったのだ。
このことは、ルーベンスがこのころ1577年にドイツのジーゲンで生まれていることに大きな影響を与えた。
なぜなら、両親が住んでいたアントワープは、カルヴァン派の本拠地であり、高学歴、知的レベルの高い人々に支持されていた。
いつの世にもあることだが、狂信的な群れがカトリックの教会の祭壇画、聖人像、マリア像を偶像と決めつけ焼き払った。
スペイン王は大激怒し、軍隊を送り鎮圧してプロテスタントを追い出したのだ。その中にルーベンスの両親もいたのだった。
今でいう、宗教難民ということか。

なお、
1563年に終わったトレント会議で、カトリックの正当性が確認された。
1585年に即位したシクトゥス5世は、わずか5年の在位期間にローマの町を一変させた。
新しい教会が建てられ、美術は民衆の信仰心を呼び起こした。
1600年の聖年では、数十万の巡礼者をローマに集めたらしい。カトリック快活の成功を祝すかのような熱気があった。
そのような時期にルーベンスはイタリアに滞在していたのだ。
ルーベンスにとっては、どこで戦争が起ころうと、留学の目的を達成する信念があったことだろう。

ヴェネツィア広場

ヴェネツ

その後のローマだが、
1796年からのナポレオンのイタリア支配時代を経て、イタリア王国建国、1870年法王領を併合してイタリア統一が成立した。

ローマに遷都、第2次世界大戦で敗戦し1948年共和制成立となって今に至る。まさに怒涛の歴史である。

それでも過去の都市国家の繁栄により成り立っている魅力的な都市群、イタリアはモザイクで美しく彩られている国なのだと実感している。

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

ヴェネツィア広場からコルソ通りを臨む

町の中に居れば遺跡が目につく、少しでも興味があれば いつの時代の物か自ずから調べたくなる、そして歴史に魅了されていくのである。

自分がどの時代に戻っても空想豊かに羽ばたくことが出来る…・そんな町がローマである。

荒廃したローマの都市の遺跡の発掘始まったのは実に20世紀に入ってからとのことである。
まだ手つかずの遺跡が目につく。新しい発見がこれからも世界を驚かしてくれるであろう。やはり 芸術の都は甦っている。

ルーベンスが1608年に去った後はローマの魅力も薄れていったかもしれない。
反比例するかのようにルーベンスの人生はこれから絶頂へと昇っていくのである。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ローマ~ヴァチカン

ルーベンス展も終わりに近づいているが、
こちらは、若きルーベンスを追いかけたイタリア旅行に話を戻そう。

カトリックの総本山はヴァチカンである。

ヴァチカン

ヴァチカン サンピエトロ寺院前

一国をなしていることは、我が国においても千代田区麹町に「ヴァチカン市国大使館」の表札がかかるお屋敷があることで納得する。

そのヴァチカン国がローマの都市の一角に存在することさえユニークである。
歴史は意外に新しく1929年のラテラーノ条約でヴァチカンは独立国になったとのことである。
テヴェレ河をはさんで町と反対側に位置しているが、サン・ピエトロ寺院はローマのこの地で殉教した聖ペテロの墓の上に建てられている。
ヴァチカンの土地自身が殉教者の広大な墓があったと言いう事である。
ルーベンスはこのサン・ピエトロ寺院の完成された姿は見ていないようである。
ラファエロ、ミケランジェロラの手を経て1626年に完成したらしい。広場の完成はもっと後のことである。

世界最大級の博物館がヴァチカン博物館である、法王の居城であるヴァチカン宮殿内にあるあらゆる宝物がここに展示され公開されている。
見学コースが出来ており、つながっているので指示に従って動いていれば総見できる仕組みである。
回廊にあるヘレニズム彫刻の傑作、ラオコーンに会うのに随分と時間がかかった。
何と最後のピオ・クレメンティーノ博物館にあった。ルーベンスの角度を変えての模写の実像に会えたのだ。

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

システィーナ礼拝堂は特に見逃せないので オフシーズンであるが7時半に入れるツアーに予約を入れた。
貸切状態といってよいほど静かに、長い時間をかけて堪能した。(写真撮影不可)
新法皇を決めるコンクラーベもこの間で行われる。
ルーベンスも仰向けになって見惚れたのであろう。

一番に入り、人のいない地図の間

一番に入り、人のいない地図の間

ラファエロ アテナイの学堂

ルーベンスも見たであろう、ラファエロ アテナイの学堂

ラファエロの間の天井

ラファエロの間の天井

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

圧巻の彫像や大理石の器

圧巻の彫像や大理石の器

人が絶えない美術館内

人が絶えない美術館内

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

サン・ピエトロ大聖堂内 ミケランジェロ『ピエタ』

サン・ピエトロ大聖堂内
ミケランジェロ『ピエタ』