母に宛てたローマからの手紙~その1

母上、ご無沙汰をして申し訳ございません。お元気のことでしょう。

私は今、待望のローマに来ております。
ヴィンチェンツォ公のお計らいで ローマで作品の模写の勉強をしています。
父上もここで勉強したと思うと感慨深いものがあります。

古代彫刻にも驚かされますが歴史上の人物が大変身近に感じられることにもびっくりしております。

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

コロッセオから望んだネロ皇帝の御殿跡地

例えば 聖書に出てくる残虐なネロ皇帝です。
彼は皇帝ですから広大な土地を所有し、大御殿に住んでいたことが目で見て分かります。

コロッセオ

コロッセオ都市計画を企画するため、ローマの街に大火を起させ、それをキリスト教徒のせいにして迫害しました。

コロッセオはエルサレムから2万人のキリスト教徒を奴隷として連れてきて2年間で建造されたと聞きました。
そのコロッセオはキリスト教徒の迫害の場所であったり、戦車の競争をしたり、ライオンの餌食になるキリスト教徒の場所だったようです。
そのころに生きていなくてよかったと思います。

 

ヴァチカンにある古代彫刻

ヴァチカンにある古代彫刻

ローマには古代ギリシャの美術品がたくさん来ています。
今はオスマントルコに支配されているので、アテネにも行けませんのでここで見られるのは幸いです。
彫刻像が物語になっていて動きがあり、迫力があるのです。
一生懸命模写をしています。縦、横、斜め、上、後ろからとあらゆる方向から描くことをしています。
いくら紙があっても足りないくらいです。楽しくて仕方ありません、

母上もどうぞお体気を付けてください、

あなたのポールより、
1601年秋

※若きルーベンスが故郷にあてた手紙を想像して書いています。

ローマ~ヴァチカン

ルーベンス展も終わりに近づいているが、
こちらは、若きルーベンスを追いかけたイタリア旅行に話を戻そう。

カトリックの総本山はヴァチカンである。

ヴァチカン

ヴァチカン サンピエトロ寺院前

一国をなしていることは、我が国においても千代田区麹町に「ヴァチカン市国大使館」の表札がかかるお屋敷があることで納得する。

そのヴァチカン国がローマの都市の一角に存在することさえユニークである。
歴史は意外に新しく1929年のラテラーノ条約でヴァチカンは独立国になったとのことである。
テヴェレ河をはさんで町と反対側に位置しているが、サン・ピエトロ寺院はローマのこの地で殉教した聖ペテロの墓の上に建てられている。
ヴァチカンの土地自身が殉教者の広大な墓があったと言いう事である。
ルーベンスはこのサン・ピエトロ寺院の完成された姿は見ていないようである。
ラファエロ、ミケランジェロラの手を経て1626年に完成したらしい。広場の完成はもっと後のことである。

世界最大級の博物館がヴァチカン博物館である、法王の居城であるヴァチカン宮殿内にあるあらゆる宝物がここに展示され公開されている。
見学コースが出来ており、つながっているので指示に従って動いていれば総見できる仕組みである。
回廊にあるヘレニズム彫刻の傑作、ラオコーンに会うのに随分と時間がかかった。
何と最後のピオ・クレメンティーノ博物館にあった。ルーベンスの角度を変えての模写の実像に会えたのだ。

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

ルーベンスがデッサンしたラオコーン像

システィーナ礼拝堂は特に見逃せないので オフシーズンであるが7時半に入れるツアーに予約を入れた。
貸切状態といってよいほど静かに、長い時間をかけて堪能した。(写真撮影不可)
新法皇を決めるコンクラーベもこの間で行われる。
ルーベンスも仰向けになって見惚れたのであろう。

一番に入り、人のいない地図の間

一番に入り、人のいない地図の間

ラファエロ アテナイの学堂

ルーベンスも見たであろう、ラファエロ アテナイの学堂

ラファエロの間の天井

ラファエロの間の天井

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

故郷フランダース産のタペストリーをルーベンスはどのような思いで見たであろうか

圧巻の彫像や大理石の器

圧巻の彫像や大理石の器

人が絶えない美術館内

人が絶えない美術館内

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

法王も通るというシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院へ通じる階段

サン・ピエトロ大聖堂内 ミケランジェロ『ピエタ』

サン・ピエトロ大聖堂内
ミケランジェロ『ピエタ』

ルーベンス展に行ってまいりました!

ルーベンス展が始まりました

ルーベンス展が始まりました

今回の「ルーベンス展―バロックの誕生」は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みであることを開催当事者は告げます。
駐日イタリア大使は「ルーベンスはイタリアで育てられた「養子」としてこの国の顔を持つと同時に、ヨーロッパをまたにかけて活動しました。」と述べています。
そしてベルギー王国大使は、「ルーベンスは古代の美術やイタリアの巨匠たちから大きな影響を受けるとともに、彼もまた何世代もの芸術家に影響を与え、まったく新しい芸術潮流の基礎を築きました」と誇りを記しています。

アンナ ビアンコ女史は今回の展示の監修者のお一人で、ローマ出身の美術史家であられます。
展覧会初日になさった講演のほんの一部を記します。

1600年、ルーベンスはアントワープから馬と船を使い一か月でベネチアに到着したようです。
今回の展覧は、ミラノで開催された「ルーベンス展―バロックの誕生」を基にしています。
この刺激あふれるイタリアで、ルーベンスがどれだけのものを吸収したかが今回のテーマです。
時代別ではなくて7つのセクションに分けましたので、それぞれにルーベンスの世界を感じていただきたいと思います。・・・・・

「ルーベンス展ーバロックの誕生」図録より ルーベンス「聖アンデレの殉教」

図録より
ルーベンス「聖アンデレの殉教」

Ⅱの「英雄としての聖人たち」ではスペインから「聖アンドレの殉教」が来ていますが、ルーベンスはこの壮大な作品(1638年)をもって彼の宗教画家としての活動を終えました。門外不出に等しいこの絵を見る機会は私どもも最初にして最後かもしれません。ルーベンスは新しい宗教画を革命的な特徴をもって描出しました。絵が何を語っているのか、“手“の表情をよく見ていただくと一人ひとりが何を話しているか伝わってきます。

Ⅴの神話のヘラクレスは、カラカラ浴場から見つかったファルネーゼのヘラクレスの彫像がもとになっていまして力の表現として使われました。

2018年2月 ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れました。ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館にて「ラオコーン像」

2018年2月
ルーベンスがスケッチしていたと知り、訪れた
ピオ・クレメンティーノ美術館(ヴァチカン)「ラオコーン像」

ラオコーンや、ヘラクレスなどなどの埋もれていた古代彫刻がルネッサンスにより脚光を浴び、それらを目にしたルーベンスはひたすらデッサンを繰り返しました。表情ある肉体として多くの作品に堂々と生き返っています。・・・・・・・・

 

 

最後にビアンコさんが映像に映し出した作品は「戦争の悲惨」でした。この作品はフィレンツェのピッティ美術館所蔵の作品で今回は来ていません。でもこの作品で締めくくられました。
ルーベンスはヨーロッパの絶え間ない戦争を憂い平和を心から希求しこの作品を描きました。
彼は自分は、世界の市民、世界中を祖国とする人間であると話したそうです。彼の人間愛がどれほど大きかったかがこの言葉で分かります。
ビアンコさんはこのように締めくくられました。

ルーベンス『戦争の惨禍』ガイドは必ず立ち止まり説明をしている

ルーベンス『戦争の惨禍(戦争の悲惨)』2018年2月に訪れたピッティ宮殿パラディ―ナ美術館(フィレンツェ)にて

私の感想としては、ルーベンスはイタリアを熱愛していました。
この展覧会が企画されたことは、ルーベンスにとって まさに“ご恩返し”に値することで天へ舞うほどの喜びではないでしょうか。
素晴らしい展覧会の一言に尽きます。
イタリア滞在の8年間にこのように沢山の作品が描かれていてそれを目に出来たことは何よりの私の収穫でした。

イタリアとルーベンスに乾杯!!

ローマ~1回目の訪問のその後

1602年にはマントヴァには帰っているようである。
1603年3月から4年夏まで ルーベンスは外交的性格を見込まれて マントヴァ公国の使節団としてスペイン王を訪問している。
この旅行のこともいずれ書かせていただきたいと願っている。

神聖ローマ帝国(ドイツ)が目と鼻の先に存在し、大国とローマ教皇庁との板挟みになりながら自国の権益を守るために、小国のマントヴァは、外交にはことのほか気を遣わねばならなかった。
日本からの天正使節団がローマを訪問すると聞けば、彼らを前もってもたなした。
スペインのような大国への貢ぎ物もゆるぎない関係を保つ上で大切な手段であった。
(今年5月に開催されていた“プラド美術館とヴェラスケス展”ではフェリーぺ4世がルーベンスの画を好まれ、政治上、宗教上、産業上でもフランドルと大変密な交流があったことを想起させてくれた。)

宮廷内の人間関係の上に、荒れた天気と王の移動が重なる苦難の旅行からマントヴァに帰ると、ゴンザーガ家から初めて祭壇画の注文が入った。
マントヴァのイエズス会の主祭壇に飾る“聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々”である。

この制作を終えて1605年、兄のいるローマを一目散に目指した。
ここにルーベンスのイタリア滞在中で最も幸せで、最も実り豊かな時期が存在する。
兄のフィリップと数か月共に過ごした至福の時があった。

この兄から、古美術の鑑定家になる素晴らしい知識を与えられた。
後にルーベンスは自ら美術品や骨董を収集するという新たな側面を担うことになる。

アントワープに帰国後、兄は1611年30代の若さで夭折してしまうので、ローマで受けた兄からの恩恵は、ルーベンスをより豊かに育てたと言ってよいであろう。

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む~兄と住んだ家もここから近い

ローマ訪問

遡ること400余年前、1601年の暮れにルーベンスは初めてローマを訪れた。
マントヴァ・ヴィンチェンツォ公から偉大な巨匠たちの作品の模写をするという名目で送り出されたのだ。
1602年4月にマントヴァに帰っているので5か月くらい滞在したという事になる。
その間にルーベンスは初めて古代美術の主要作品にじかに触れることができた。当時古代美術と言えば彫刻に限られていたとのこと。古代彫刻は古代ローマの遺跡の中に在ったり、地中から掘り起こされてはいたが、日の目を見なかったが、ルネッサンス期に入って人々の関心が高まっていった。
ローマは古典研究と古代遺物の発見の中心地となった。芸術の世界だけではなく、学問の世界でもヨーロッパの上流社会の人々にとって、何が何でもローマで学ぶことがその道の総仕上げと思われステイタスになっていたようだ。因みにルーベンスの父親もローマで法律の勉強をしていた。

『ラオコーン』像 ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館

『ラオコーン』像
ヴァチカン ピオ・クレメンティーノ美術館所蔵

若きルーベンスは古代ギリシャ、ローマの彫刻(アフリカの漁師、ラオコーン、女神像など)・・・彫刻に魅了され、熱心に研究し、デッサンを繰り返し、模写に明け暮れたようだ。

後の作品にこれらの模写の姿が多く出て来るが、コピーそのものではなくルーベンスの手による新たな人物が描き出されている。其の上、このころはコピーに対して現代のようには模倣、著作権云々とみなされることはなかった。当時の模写も多くが残っているが、それらの模写をチョークで描くことにより、輪郭線を柔らかくし、ペンよりもずっと巧みに肉体の感触を出すことが出来ることも自ら学んだ。さらに、モデルをいろいろな角度から描ききる意欲と興味に対するエネルギーを、ルーベンスは持っていた。

 

この半年間に、アルブレヒト大公から祭壇画を依頼された。

“聖女ヘレナと真の十字架”(1601年~2年)板に油彩 252×189cm
“愚弄されるキリスト”(1601年~2年)板に油彩 224×130cm

を描いたようだが、今はローマでは見られない。ローマで初めて手掛けた作品なのに・・・今はグラース市立病院礼拝堂にある。

2018年2月、私たちは真冬のさ中、東京を出発してローマに着いた。
荷物が出て来る待ち時間に洗面所を目指すと 壁とドアの色合いが目に留まった。壁は薄緑色、ドアは濃い緑色・・さすがである。ローマの玄関は爽やかであった。
空港からホテルまではお願いしておいたドライバーが待ち受けているので、私達のような女二人の旅行者には安心である。年間どの位個人客が訪れるのであろうか、このような便利な仕組みが整っているのは大変ありがたい。

ローマの夜景

車中からローマ見物が始まり説明を聞きながらバチカンに近いホテルに到着した。
さあ、ローマに到着、明日から探訪が始まる。