フィレンツェ~メディチ家の歴史

フィレンツェで最も古い聖堂サンロレンツォ聖堂

ミケランジェロがが設計に加わったものの未完の聖堂サンロレンツォ聖堂のファサード

ここで、メディチ家の強運なる一族の300年余の歴史を簡単に記しておこう。

1413年、それはジョバン二・ディ・ビッチが教皇ヨハネス23世の財政上の責任者となった時から始まる。

その息子コジモ・ロレンツォは政治的能力も備えて民衆の支持を得た。
文化的な熱情に溢れたこの時代は捨て子養育院という社会的建造物から、
サン・ロレンツォ教会、図書館にも関心を持ち、プラトン・アカデミーも設立した。
サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にある「ノアの洪水」のフレスコ画は秀逸である。
彼は まさに『祖国の父』と呼ばれるにふさわしい人物であった。

修復中のロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟ミケランジェロによる『夕刻』と『曙』で装飾されている

修復中のロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチの霊廟ミケランジェロによる『夕刻』と『曙』で装飾されている

フィレンツェを「新しいアテネ」に高めたと言われる豪華王ロレンツオ(1449~1492年)への賛辞は、
アンジェロ・ファブロー二が次のように記している。

「彼は賛美と栄光に生き、自らの町だけでなく、全イタリア、全世界からの最高の尊敬を集めた」

ボッティチェリの有名な絵、「春」(1482)「ヴィーナスの誕生」とともに宮廷の教養溢れる雰囲気を醸し出している。

修道士サヴォナローラはキリスト教的で反人文主義的な熱情に燃え キリストの王国の到来を狂信的に希求していた。
神秘的な説教に魅せられ様々な改革がなされ、メディチ家も追放され、ルネッサンスの芸術作品も盗まれ破壊された。

ウルビーノ公ロレンツオ(1479~1516年)から、教皇レオ10世ジョバンニとメディチ家の母体が教皇になり再び復帰をなすのである。

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ミケランジェロによる『夜』と『昼』に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ジュリオ(教皇クレメンス7世)は(1478~1534年)は、外交手段を巧みに駆使し、メディチ家一族の復帰計画を推進した。
1527年ローマサッコが起こり、クレメンスは再びフィレンツェから追放されたが、が外交手段を巧みに駆使して、新憲法を作り上げた。
知性に溢れた芸術擁護者であった。

フィレンツェ公アレッサンドロ(1511~1537年)
メディチ家最初の公爵になった。フィレンツェ共和国公爵の肩書をもつ。

トスカーナ大公コジモ1世(1519~1574年)
共和制の痕跡は消し去れ、フィレンツェは地方国家の首都となりその豪奢を称えるために芸術が利用された。
ヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ廊下を作る。

彩色大理石で飾られた豪華な君主の礼拝堂

彩色大理石で飾られた豪華な君主の礼拝堂
コジモ1世の原案をフェルディナンド1世が引き継いで建てられた

1546年フランドルから紡績工の一団をフィレンツェに呼びタペストリー工場を設立した。
数年後には、この工場はヨーロッパで最も評価の高いタペストリー製造所となった。
1563年ヨーロッパ最初の美術アカデミーである「美術及び素描アカデミー」が創立された。
60人の画家、彫刻家、建築家によって構成され6人の役員によって運営された。
トスカーナ全域に数多くの砦を建設した。軍事建築のモニュメントである。
1569年コジモは教皇ピウス5世からトスカーナ大公の称号を与えられた。

 

トスカーナ大公フランチェスコ(1541~1587年)
内戦状態のヨーロッパの中ではあまり繁栄はなかった。ヴェッキオ宮殿の中に小書斎を設け科学に傾倒しその発達を促した。
公的な仕事には興味がなかった。
おかげで、ウフィーツ宮殿を美術館にしたのは偉大な知的偉業とのこと。
「ギャラリー」という言葉はメディチ家のコレクションを展示するのに理想的な場所として、最上階の廊下(ギャラリー)を利用したことに由来している。

 

トスカーナ大公フェルディナンド1世(1549~1609年)
ルーベンスがイタリアに滞在していた同時期の当主である。彼はスペインとのつながりを弱める一方フランスとの関係の強化を図った。
一族の繁栄に気を配った。アレッサンドロ・デ・メディチが教皇に選出されるよう策略をし、彼はレオ11世として即位する。

モザイク

彼の最大の功績は、1488年に工房の回廊、次いで輝石製作所を創設して輝石加工を組織的に行う機関を設けたことである。

精緻なモザイク

精緻なモザイク

モザイク製品が生み出された。ミケランジェロはフィレンツェモザイクを“永遠の絵画”と呼んだそうである。
またリヴォルノ港建設に力を注いだ。

 

トスカーナ大公コジモ2世(1590~1621年)
メディチ家の一族の生活の糧であった銀行の活動を止めたことは大きい。ガリレオに数学教授の席を準備して、フィレンツェに呼び戻した。海軍に力を入れ軍艦を建造した。

トスカーナ大公フェルディナンド2世(1610~1670年)この大公の50年に及ぶ治世の時代にはメディチ家衰退の長い坂道であった。美の理解者であり情熱的でヴェーネト絵画に魅了され収集した。絵画コレクションだけでなく、時計、宝石箱、玩具、置物,輝石製置物など膨大であった。

トスカーナ大公コジモ3世(1642~1723年)
フィレンツェと一族の命運を支えたメディチ家のメンバーの中では良い支配者ではなく、大公国は恐怖の専制国家となった。豪華な聖遺物容器を金属細工仕上げも立派で信仰の篤さがうかがえる。トスカーナの自治と独立のための努力をして独立を維持したことは、帝国の支配下にはいることはなかった。

トスカーナ大公  ジャン・ガストーネ(1671~1737年)
メディチ家最後の末裔である。サンタ・クローチェ教会にガリレオの記念碑を設置した。

◇ジャン・ガストーネの姉、プファルツ選帝侯妃アンナ・マリア・ルイーザによって、フィレンツェの為の最後が執り行われた。メディチ家の所属する別荘、宮殿、溢れんばかりの美術品、絵画、彫刻、貴重品の膨大な財産をトスカーナ大公国に贈ったのである。

結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルグ家の支配下にあった。
1860年にイタリア王国(1861-1946年)に合併され、1865年からヴィット―リオ・エマヌエーレ2世の治めるイタリア王国の首都になるものの1871年首都はローマに移された。

 

フィレンツェ~マリー・ド・メディシスの結婚式

Firenze

Firenze

1600年10月 ルーベンスはマントヴァに落ち着く暇もなく大公と共にフィレンツェに赴くことになった。
メディチ家の公女、マリーがフランス王 アンリ4世と結婚するのだが、代理結婚式(妙な響きだが国王はフランスを離れず、代理人がマリアに結婚指輪を渡した。)という名の結婚式に招待され、10月5日の挙式に参列した。

フィレンツェ ドゥオーモ

フィレンツェ ドゥオーモ

式場はフィレンツェの象徴である花のドゥオーモ、聖母寺院であった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレが正式の名で、シンボルのドームの完成が1446年という事である。

 

私が訪れた時は身廊の通路が大変広くとってあり、脇に椅子が並べられて結婚式の様子が想像できた。

 

ドゥオーモ内部 前方から後方を見る

ドゥオーモ内部

広々とした聖堂内

祭壇

ドゥオーモの天井

ドゥオーモの天井

式典も華やかで内外からの招待者も多かったであろう。
招待者と共に 町のあらゆる階級の人々も参列したようだ。

例えば、金細工師、屋内装飾職人、軽業師、道化師、花火師、食堂の主人、菓子職人などもよばれ、町中で大宴会が繰り広げられたとのことである。

 

なお、正式な結婚式は12月7日リヨンで行われている。

王ルイ13世の母となったマリーとルーベンスとのつながりは、この結婚式参列に始まるのであるが、後年のことを誰が予測したであろう?

後年マリー・ド・メディチは ルーベンスのパトロンとなり、ルーベンスが描いた“マリー・ド・メディシスの生涯”の大作は 現在ルーブル美術館に一部屋を占領して飾られている。

ルーヴル美術館『マリー ドゥ メディシスの生涯』

ルーヴル美術館『マリー・ド・メディシスの生涯』

 

晩年マリーがフランスを抜け出してケルンに隠居して生涯を終えた時の邸宅は、幼いルーベンスが過ごしたその同じ邸宅であった。

結婚式出席の後、ルーベンスは大公からフィレンツェの芸術を鑑賞して勉強するようにとの言葉をかけられたことは想像に難くない。
淡紅色の美しい大理石の建造物に町の豊かさを見る。

マントヴァ~序 ルーベンスを想う

いよいよ、ルーベンス、マントヴァに到着する

1600年の初夏の頃、ルーベンスはマントヴァ公国に到着。
ゴンザガ公爵公より宮廷画家として召し抱えられたことは、ルーベンスにとってなんと幸せであったことか。
ここに彼の強運を見るのである。

マントヴァへの道

人口湖に囲まれたマントヴァへの道

ルーベンスは、1608年彼が故郷に急ぎ帰るまで8年間、宮廷画家として遇された。
公爵は、ルーベンスをマントヴァだけに留めることなく、スペインへの外交的任務を与えたり、新しい都市に随員として連れ出したり、画業の勉強の為ローマへ行かせるという大らかさを持たれた方で、若いルーベンスにとって最高のパトロンであったかもしれない。 続きを読む →

ルーベンスのイタリア滞在をたどる旅~序

 

ルーベンスも登ったであろうピンチョの丘から望んだローマの風景

バロック絵画の巨匠とよばれるベルギー・フランドルの画家ペーテル・パウル・ルーベンスは1600年から1608年の8年間イタリアに留学しました。23才から31歳までの青春時代と言ってよろしいでしょうか。

最初の訪問地はヴェニツィアだったようです。そして、マントヴァ公国の宮廷画家に召し抱えられます。マントヴァを拠点としてフィレンツェ、ローマ、ジェノヴァ(短期間には、ヴェローナ、ミラノなども挙げられますが)にも滞在しました。

今回私にイタリアのルーベンスを辿る旅に出たいという強い気持ちにさせたのは、アントワープでの彼の作品の原動力、源はイタリーの滞在で培われたものであることが分かったからでした。

天性の力量に加えてルーベンスの若き時代のほとばしるエネルギーによる模写力、精神力を育てた環境。ルネッサンスが花開き、教会建築、絵画などできらめくような反宗教改革の盛りのローマの町で呼吸していたルーベンスの姿を見つけたいと思ったのです。

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