私が訪れた日は丁度シベリアの寒気団がヨーロッパ中を覆い尽くし、TVは60年ぶりだというシチリアの雪景色を映していた。
マントヴァも大変寒くて、観光地ながら人もまばらで余計に寒さを感じた。
が、インフォーメーションに寄ってみると、気合が入っているのである。
マントヴァ市が積極的に観光に力を入れていることを知った。自ら経営に乗り出したようだ。
パンフレットもイタリー語だけでなく英語、あるものは日本語でも用意されていた。
係の美しい女性が丁寧に分かりやすく観光の注意をしてくれる。
宮殿は2時から開館すること、教会はミサがあるので4時半に入ることが出来る。などなど。
町の中心と思える広場、古い円形の赤色の煉瓦つくりの教会、城塞と思われるようなのが、写真で見た裁判所であろう。寒いが静かな町がどっしりと目の前に現れている。人っ気のまったくない広場が魔法にかかったように私を中世の古へと誘う。
着いたよ、ルーベンスよ、こう叫びたくなるほど胸が熱くなった。
マントヴァは以下の歴史を持った町である。ざっと記しておきたい。
紀元前6世紀ないし5世紀のエトルリア人に遡るとされる。古くから12の都市が存在したらしい。
ミンチョ河と深い関わり合いがある。河が蛇行するたびその沈殿物によって二つの島が形成された。町はその上にあるので自然の要塞として守られている。どこかヴェネチアを思いだされる。
その後ミンチョ河の氾濫に悩まされ12世紀に、人工的にせき止めて、湖ができた。その結果スーペリオレ湖、メツォ湖、そしてインフォーレオレ湖と三方水に囲まれている。遠くに肥沃な平野が開かれて、山並みがそびえ、いとも美しい風景が広がる。
ローマ帝国の偉大な詩人ヴァ―ジルは、マントヴァ生まれでこの田園の静かな美しい町とイタリアへの愛をつなげて詩に歌っている。
マントヴァは神秘的な建立者の記憶をとどめ、ギリシャの神々からローマの神々へと捧げられた町となる。
そして ローマ帝国が衰退して蛮族の侵入を受けた時期、マントヴァの支配者もコロコロと変わっっていた。
12,3世紀には自由を守りぬいた結果、領土を広げていき、領主の宮殿も建てられ、町の周囲に壁が建てられ、次第に中世風の町となっていった。