マントヴァ~ドゥカーレ宮殿 ルーベンスの間

『聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々』はルーベンスが1604~5年にかけて描いた祭壇画である。

ルーベンスの間

ルーベンスの間

年代的に申し上げると、
1601年、ルーベンスは主人の命令で作品の複写の勉強をするためローマに滞在した。
1603年、マントヴァ公は「教養もあるがとにかく話も面白い」と人と機を見ることに優れていた若い画家の能力を外交儀礼に役立てた。
贈り物を届ける外交使節としてスペインに赴くのである。
1604年、彼にとって苦難の連続であったスペイン旅行から帰国し、マントヴァ公から念願の注文を受けた。マントヴァのイエズス会教会の内陣を3枚の大画面で装飾する仕事であった。

中央の祭壇画の主題は 「聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々」
両翼の壁面には「キリストの洗礼」と「キリストの変容」があてられた。
今、目の前にある「聖三位一体の礼拝」の大作は、ナポレオンの兵隊により断片にされ、パリに持っていかれた。
とは言いながら、現在ここにあり、小さくなったとはいえ、その全体的構図を見ることが出来る。
カンヴァスに油彩。 185×462㎝(上下の断片とも)

写真でご覧になるとお分かりのように、上半分は天使たちが捧げ持つタペストリーの図柄として、聖三位一体の出現が描かれている。
右に父なる神、左に子なるイエス・キリスト、そして鳩の形をした聖霊が中央を占める。

「聖三位一体を礼拝するゴンザーガ一家」の上半分

「聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々」の上半分

下半分ではゴンザーガ家の人々が膝まづいて礼拝している。

「聖三位一体を礼拝するゴンザーガ一家」の下半分

「聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々」の下半分

グループ全体はテラスの上に位置し、ここでは手に入れることの出来た断片を置いて、原作に近いものを想像させてくれている。
ここまで図面で説明してあるのは非常に貴重なものである。男女のグループに分けられた子供達、護衛兵も脇に付き添っていたことが分かる。完成図がどんなに大きなものであったか。

はぎとられる前の祭壇画

はぎとられる前の祭壇画  今残っている肖像画風の絵は、この祭壇画の一部だったのだ。

26歳のルーベンスがゴンザガ家の為に、はじめて主人から託された祭壇画である。
ゴンザガ家への忠誠と尊敬と感謝の念がみなぎっている。

すでに亡くなっている両親とヴィンチェンツォ夫妻のいる俗の世界。
神とイエス・キリストと聖霊のしるしの鳩の聖の世界。

これはまさにヴェネツィアの絵画の特徴とのことである。学んだ憧れのヴェネツィアの色彩を取り入れている。そして故郷の有名なタペストリーを画の中に用いることも忘れていないところが好感を持つ。

中央の祭壇画の脇にも2枚の絵を描いたが 別の場所にそれぞれ離され展示されており、この場所に返ってくることはなかった。
この祭壇画だけでもこの場所に永遠にとどまることはルーベンスにとって何にもまして喜ばしい事であろう。

この美術館には ルーベンスのファンも多く訪れることであろうから、たいへん丁重に取り扱っていることが分かる。
ここを訪れた甲斐があったというものである。
そしてルーベンスを心から褒めてあげたい。

“よくやった!”

マントヴァ~ドゥカーレ宮殿

今回ルーベンスの描いた画と対面出来るパラッツオ・ドゥカーレの美術館の訪問は 夢のようなことで楽しみであった。

私たちは、予約をしておいた「新婚の間」にまず向かった。
同じドゥカーレ宮殿といっても、正式にはサンジョルジョ城といって、別の建物のようだ。
(予約しなくても、入れそうなくらい、人はまばらでした)

新婚の間(結婚の間、夫婦の間または絵画の間ともよばれている)
Camera degli Sposi (カーメラ・デリ・スポージ)と表示されている。
これは 名だたるマンテーニャの傑作(1474年)という事で、かなりの人が鑑賞していた。。

フレスコ画とテンペラ画を併用した壁画の修正がやっと終わり、今、公の前に現れてくれた。
昔は礼拝堂であったとのことだが、さほど広くない部屋は壁画で装飾され、ゴンザーガの居所としたが、ルネッサンス風に改装され、謁見の間として使われた。

ゴンザガ家の人々が描かれている

ゴンザガ家の人々が描かれている

北側の暖炉の上の画は「宮廷の間」「家族団らんの間」と呼ばれゴンザーガ家の人々が21人描かれている。絵の右端で、ミラノからやってきたスフォルツオ家の使いの人たちが上ってくる。左端には赤い帽子をかぶった、ルドヴィーコ公爵が椅子に座っている。廷臣が新しい知らせを告げている。

晴れて枢機卿となったフランチェスコ(中央の水色の衣に赤いケープ)がマントヴァに帰国し、党首である父と再会している場面が描かれている。可愛らしい王子と王女の足の色はなぜ片足だけが白い色であるのか?

マンテーニャによる新婚の間のフレスコ画

マンテーニャによる新婚の間のフレスコ画

西側は「出会いの場」。馬丁らしき人が一頭の見事な葦毛の馬と数匹のグレートデンを連れている。それぞれ身に着けている金細工の飾はほれぼれする。マントヴァの宮廷が如何に栄華を誇っていたか伝わってくる。

東側と南側は落剝が激しく作品は殆ど残っていない。

遊び心あふれる天井画

遊び心あふれる天井画

天井画の円窓はだまし絵で遊び心がある。欄干の周りで遊んでいるユーモラスな天使達、女性たち、孔雀が青空をバックにした円天井から下を覗き込んでいる。何と賑々しい事だろう。

柱には描かれた蔓状の模様の中からマンテーニャの顔がのぞいている。

美しいフレスコ画に囲まれ誘われて時は静かに流れた。表現する言葉が見つからなかった。油絵と違った優美な品位に充ちた古色の色合いに改めて魅せられた。フレスコ画の神髄を見た思いであった。
確かに、この部屋を見るためにマントヴァに来る価値もあり得ると思った

そこからは、小さな部屋に展示された様々なコレクションを鑑賞。

時間になり、やっと入ったドゥカーレ宮殿。

ドゥカーレ宮殿大広間

ドゥカーレ宮殿大広間

天候の悪さもあってか、宮殿へ入った時は男子高校生の団体グループと私達だけであったので、ゆっくりと時間をかけて宮殿の宝を鑑賞できたことは真に幸運だった。

玄関を入ると幅の広い階段を上って大広間にでる。これはフィレンツェのヴェッキオ宮殿の五百人を収容する大広間を想起させるものである。ちなみに、ヴェッキオ宮殿は1444年に建設が始まっている。1530年ゴンザガ家の当主がフィレンツェ、ローマより多くの建築家を迎え入れ、ルネッサンス調の町を作った。ドゥカーレ宮殿が1560年に完成したことからみると建築様式の影響は大いにありそうだ。

高いところに壁画があり、低いところは大理石でできた大広間

高いところに壁画があり、低いところは大理石でできた大広間

大広間はがらんとしていて家具類は何もなく、ところどころに彫刻の立像がある。あるものは首がないがきっと貴重な像であろう。
しかし壁の上方は大きな画が飾られているがはっきりと見えない。因みにマントヴァのフレスコ画の原画は今は残っておらず、これらは RITRATTO…年 と書かれていて修復年が表示されている。それにしても巨大な壁画の修復も大事業である。
大広間は 警備員二人と私達だけが存在していて貸切状態であった。豪華な格子天井が印象的であった。

続いて、ゴンザガ家の歴史、系図、宝物‥を見ながら導かれて進んだ。
途中、「シーザーの間」という豪華な部屋があった。

ジュリオ・ロマーノがティツィアーノに依頼した壁画で飾られた部屋のようだ。
原画は失われ、17世紀に模写が飾られたのものを修復したと書かれているようだ。

修復したのであろう、素晴らしい色合いの壁画

ティツィアーノによる豪華な部屋

ティツイィアーノによる壁画の原画はなく、これらは復元されたもののとようだ

ティツィアーノの原画はなく、これらは復元されたもののようだ

 

 

 

 

 

そして
とうとうたどり着いた。ルーベンスの間。
ここでは高校生のグループもガイドの長い説明に聞き入っていた。
詳しくは、次の投稿に託そう。

マントヴァ~歴史 14世紀以降

時は流れて・・・・ 14世紀以降、ゴンザーガ家が統治するようになっていた。

ヴィンチェッツォ1世の父グリエルモの居城

ヴィンチェッツォ1世の父グリエルモの居城

フランチェスコ2世(1466~1519年)の嫡男フェデリーコ2世(1500~1540年)の代に、
神聖ローマ皇帝カール5世より公爵位を授けられ1530年マントヴァ公国が成立した。

フェデリーコ2世は建築の才があり、早速、ジュリオ・ロマーノ(ミケランジェロの弟子)を招き、幾つかの建物をネッサンス風に新築したり改築したりした。
おしゃれな母、イサべラ デ エステ(1477-1539)は、芸術家、音楽家、作家と交際し、ギリシャ・ラテンの古典文学や歴史など語るサロンを設けた。芸術保護に熱心であった両親は、夫婦で国の財政に無頓着であったことから、ルネッサンス絵画、宝石、コインと美しいものは何でも収集したことは内外に有名であり人々をひきつけた。

テ離宮の馬の間

テ離宮の馬の間

一方、息子のフェデリーコが最も愛したのは“馬”であって、シチリア、アラビア、エジプトまで種馬を取り寄せ、競走馬の育成に熱心であったようだ。ジュリオ・ロマーノの建築した夏の離宮“テ”には広大な厩舎、競馬場が残されていることを地図で確認できた。

マントヴァは14世紀から17世紀にかけて小さな真珠のように輝いた国であった。

複雑に入り組んだドゥカーレ宮殿

複雑に入り組んだドゥカーレ宮殿

その後幾多の運命をたどりながらも不思議に守られていたのか、その黄金期に建てられた建造物が増築に増築を重ね、宮殿建築物の中には550もの部屋があるとも言われる。
現在、それらの部屋の装飾を修復しており、当時の趣を目にすることができる。
また、少なくなったとはいえ、収集された膨大な種類の品々も展示されていた。

ルーベンスを雇い入れたヴィンチェンツォ1世ゴンザガ

ルーベンスを招いたヴィンチェンツォ1世ゴンザガ公

ルーベンスを宮廷に招き入れたマントヴァ公爵ヴィンチェンツォ1世・ゴンザガ公も歴代の盟主に名を連ねている。
周囲を大国に囲まれ、小さいながら国を保持していくことは並大抵ではない。外交方策も怠りがなかったが、一方では教養深い芸術のパトロンとしてイタリア内外に知られていた。

彼のコレクションはルーベンスにとって“理想的な教師”であった。のびのびと羽根をのばし、多くの作品に浸ることが出来た。ルーベンスがこの静かな環境で公爵所蔵の優れた古代彫刻、フレスコ画など最高の作品と出会ったことは終生の宝である。
この広い居所のどこかに部屋を与えられていたに違いなく、神話の神々の絵画にも日常的に囲まれていたであろう。
アントワープへ帰郷してから描かれる絵画の原点を沢山鑑賞することが出来た。

しかし、ルーベンスが去った後の1629年ゴンザガ家の財政は破たんし、多くの収集品がイギリスのチャールス1世に買い取られていった。不思議な機縁であるが若き20代のルーベンスが目にしていた絵画を50代を過ぎて、イギリスで再び合いまみえることが出来たのである。

1707年ゴンザガ家最後の後継者が罷免され、マントヴァはオーストリアの支配に委ねられた。
この世紀にはサンタンドレア教会のドオモ、劇場、sordi  、Canossa palaceなどが建築され、再び芸術的な崇高さを帯びた町になった。
ハプスブルグ家の女皇帝マリア・テレサが庇護したのである。

しかし、世界は再び混乱状態に陥り、マントヴァは1866年に再びイタリアの国に併合された。

湖とポプラの木との美しい風景を維持しながら、観光、産業、農業と広がりを持ちながら今も生き続けている。

ドゥカーレ宮殿を望む

ドゥカーレ宮殿を望む

テ離宮

テ離宮

マントヴァ~歴史 13世紀まで

マントヴァのインフォメーション

マントヴァのインフォメーション

私が訪れた日は丁度シベリアの寒気団がヨーロッパ中を覆い尽くし、TVは60年ぶりだというシチリアの雪景色を映していた。

マントヴァも大変寒くて、観光地ながら人もまばらで余計に寒さを感じた。
が、インフォーメーションに寄ってみると、気合が入っているのである。

マントヴァ市が積極的に観光に力を入れていることを知った。自ら経営に乗り出したようだ。
パンフレットもイタリー語だけでなく英語、あるものは日本語でも用意されていた。

マントヴァのガイド

マントヴァのパンフレット

係の美しい女性が丁寧に分かりやすく観光の注意をしてくれる。
宮殿は2時から開館すること、教会はミサがあるので4時半に入ることが出来る。などなど。

閑散としたマントヴァの中心地

閑散としたマントヴァの中心地

町の中心と思える広場、古い円形の赤色の煉瓦つくりの教会、城塞と思われるようなのが、写真で見た裁判所であろう。寒いが静かな町がどっしりと目の前に現れている。人っ気のまったくない広場が魔法にかかったように私を中世の古へと誘う。

 

ルーベンスも通ったであろうドゥカーレ宮殿

ルーベンスも通ったであろうドゥカーレ宮殿

着いたよ、ルーベンスよ、こう叫びたくなるほど胸が熱くなった。

マントヴァは以下の歴史を持った町である。ざっと記しておきたい。

紀元前6世紀ないし5世紀のエトルリア人に遡るとされる。古くから12の都市が存在したらしい。
ミンチョ河と深い関わり合いがある。河が蛇行するたびその沈殿物によって二つの島が形成された。町はその上にあるので自然の要塞として守られている。どこかヴェネチアを思いだされる。

その後ミンチョ河の氾濫に悩まされ12世紀に、人工的にせき止めて、湖ができた。その結果スーペリオレ湖、メツォ湖、そしてインフォーレオレ湖と三方水に囲まれている。遠くに肥沃な平野が開かれて、山並みがそびえ、いとも美しい風景が広がる。

ローマ帝国の偉大な詩人ヴァ―ジルは、マントヴァ生まれでこの田園の静かな美しい町とイタリアへの愛をつなげて詩に歌っている。
マントヴァは神秘的な建立者の記憶をとどめ、ギリシャの神々からローマの神々へと捧げられた町となる。
そして ローマ帝国が衰退して蛮族の侵入を受けた時期、マントヴァの支配者もコロコロと変わっっていた。

12,3世紀には自由を守りぬいた結果、領土を広げていき、領主の宮殿も建てられ、町の周囲に壁が建てられ、次第に中世風の町となっていった。

マントヴァ~序 ルーベンスを想う

いよいよ、ルーベンス、マントヴァに到着する

1600年の初夏の頃、ルーベンスはマントヴァ公国に到着。
ゴンザガ公爵公より宮廷画家として召し抱えられたことは、ルーベンスにとってなんと幸せであったことか。
ここに彼の強運を見るのである。

マントヴァへの道

人口湖に囲まれたマントヴァへの道

ルーベンスは、1608年彼が故郷に急ぎ帰るまで8年間、宮廷画家として遇された。
公爵は、ルーベンスをマントヴァだけに留めることなく、スペインへの外交的任務を与えたり、新しい都市に随員として連れ出したり、画業の勉強の為ローマへ行かせるという大らかさを持たれた方で、若いルーベンスにとって最高のパトロンであったかもしれない。 続きを読む →