アントウェルペン 聖母大聖堂 『キリスト降架』

続いてご紹介するのは、『キリスト降架』です。

キリスト降架 1611-14年 アントウェルペン聖母大聖堂
キリスト降架
1611-14年
アントウェルペン聖母大聖堂

『キリスト昇架』が完成して間もなく、アントワープ聖母大聖堂に祭壇を持っている市民護衛団の火縄銃射手組合という伝統ある団体から依頼を受けました。
恐らく、1566年の偶像破壊(イコノクライシス)で攻撃され破壊していたのでしょう。
1611年3月、北オランダとの休戦協定の締結の2年後、ルーベンスは名誉ある礼拝堂の祭壇画の制作依頼を受けました。
パトロン(責任者)はこの組合の長で、アントワープの市長を務めたニコラース・ロコックスでした。

三連祭壇画、板に油彩
依頼されたときルーベンスは34才でした。

中央図 中心的主題:キリスト降架
左翼:聖母マリアのエリザベト訪問
右翼:エルサレム神殿への奉献
両翼の外側:<聖クリストフォロス><隠者>

聖クリストフォロスーキリストを担う者
聖クリストフォロスーキリストを担う者

この祭壇画の制作にあたって、教会の会堂参事会という祭壇画を管理する組織と市民護衛団との間で図像について話し合いが行われました。
聖母教会の鉄砲ギルドの守護聖人は聖人クリストフォロスですが、トリエント公会議で崇敬が認められなくなりました。
何とかして地元の地域でなじみのある信仰の聖人の描出を人々は願いました。
それゆえ、ルーベンスは、日曜、祭日に閉じられる祭壇画の外側に描くことにより教会との折り合いを付けました。
そのうえ、ある学者がクリストフォロスはギリシャ語の語源に“キリストを運ぶ人”の意があることをのべて、みなの納得のいく祭壇画となりました。
すなわち、この祭壇画にはキリスト(この世の光)と、彼が、胎内にある時、出産後お宮参り、十字架へと「運ばれている」という確立されたテーマがありました。

トリエント公会議について説明いたします。
公会議とは、世界中の大司教や司教などの聖職者が集まって教義と教会規則について審議決定する会議です。1545年から63年に行われたトリエント公会議は「対抗宗教改革」ともよばれ、バチカンが招集した当初はプロテスタントとの和解の模索であった、だが、和解にはつながらず、結果的には、カトリック教義を確認して、より保守的な立場になった。(バチカン近現代史、松本佐保著)

画面を見ていきましょう。

キリスト降架 1611-14年 アントウェルペン 聖母大聖堂
キリスト降架
1611-14年
アントウェルペン 聖母大聖堂

中央図:中心的主題 キリスト降架 4.2×3.1m
亡くなったキリストの体を囲んで一群れの人々が十字架から降ろして布で包もうとしている場面です。
赤い色の外套をまとったヨハネが椅子に足をかけて、キリストの遺骸を支えています。
椅子の上にはニコデモがいます。
十字架の横木から身をのりだしている二人の男がいます。

キリスト降架 マリア
キリスト降架 マリア

マグダラのマリアとクロパのマリアは十字架の下にひざまずいています。聖母マリアは青白い顔をしながら息子イエスを支えようとしています。
マリアの描出に注目します。死んだ息子を見る痛みに打ち勝ったとは決して言えませんが、愛おしい目をして、わが子に触れようとしています。
悲しみに崩れおれるマリアでなく、死んだ息子を見る痛みに打ち勝ち、すっくと立っているマリアの姿は堅忍不屈の精神として当時迎えられた新しい姿です。パトロンの市民護衛団と教会の司祭、そして画家との話し合いで決まったこととのこと、祭壇画として凛々しいマリアの登場の最初のものです。(マルコによる福音書15章、42~47節)

儀式的な荘厳さのうちに十字架からキリストの体が低く降ろされる。マリアとお気に入りの弟子ヨハネと罪の悔悛のマグレーナのマリアの待ちわびる腕にゆだねられます。キリストの銀色に輝くような体は、犠牲的な死により罪深い人間を救う古典的神話の死または死に瀕している姿の想起と融合します。
キリストの体はルーベンスがラオコーン(ギリシャ神話のトロイアの神官の名前で、この古代彫刻がローマのヴァチカン美術館にあり、ルーベンスがこの像を、角度を変えて熱心にデッサンしました。)のポーズを逆にしたものです。異教世界とキリスト教世界の区別を超え、ラオコーンの死はキリストの受難に変わりました。痛々しい姿ですが、肉となった若き神の死に際してのぐったりとした最後の姿をありのままに描かれています。

ルーベンスの作品に、古代ローマのイメージから、ローマカトリックのイメージへと図像表現の変容が見られるのです。これがルーベンスの真骨頂です。

キリスト降架 左翼
キリスト降架 左翼

左翼:聖母のエリサベト訪問 4.2×1.5m
橋の上の玄関で身籠ったマリアが従姉のエリザベートを訪れています。彼女のお腹には洗礼のヨハネが宿っています。彼女らには夫のヨセフとゼカリヤアが付き添っています。旅の品物が入ったかごを持った侍女は、マリアとヨセフが泊まりに来たことを示しています。
ルカによる福音書:1:39-44
・・・その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリヤの家に入ってエリザベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリザベトが聞いた時、その胎内の子がおどった。エリザベトは精霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子供は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう。」
マリアの賛歌が続きます。美しい詩の形式になっています。

キリスト降架 左翼
キリスト降架 左翼

右翼:エルサレム神殿への奉献 4.2×1.5m

生まれたイエスを両親がエルサレム神殿へ奉献しているところです。ユダヤの寺院では最初に生まれた男の子は神に捧げられ聖別される習慣があります。幼子イエスは司祭長シメオンの腕にゆだねられています。
「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらしてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の為に整えて下さったのです。」(ルカによる福音書:2:25~38節)
黒い柱の前でシメオンとマリアの間に84歳の年を取った預言者アンナが現れる。
「そのとき、近づいてきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼子のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に語り聞かせた。」(ルカによる福音書:2:38)に述べられていることを視覚化して臨場感溢れるものにしています。

キリスト降架に描かれた
ロコックス
キリスト降架に描かれた
ロコックス

シメオンは祭司長になってまばゆいばかりの金色と赤の法衣を身にまといお祝いムードを演出しています。跪いたヨセフは伝統的な供え物である二羽の鳩を持っています。84才の女預言者アンナの姿もあります。友人であるロコックスの助力に感謝してシメオンの後ろにロコックスの肖像が描かれています。

両翼の外側:<聖クリストフォロス><隠者>

キリスト降架 背面
キリスト降架 背面 聖クリストフォロス
キリスト降架 背面
キリスト降架 背面 隠者「光」を運んでいる

本作品は、カトリックの祭壇画のモデルとして、広く影響を与えました。
受難と聖体拝領の視覚化として、敬虔な信者の感覚と精神に訴えました。

『キリスト昇架』『キリスト降架』の2枚の大トリプチックの画は、ルーベンスの名声を確立し、北ヨーロッパ随一の画家とみなされるようになりました。