マントヴァ~歴史 14世紀以降

時は流れて・・・・ 14世紀以降、ゴンザーガ家が統治するようになっていた。

ヴィンチェッツォ1世の父グリエルモの居城

ヴィンチェッツォ1世の父グリエルモの居城

フランチェスコ2世(1466~1519年)の嫡男フェデリーコ2世(1500~1540年)の代に、
神聖ローマ皇帝カール5世より公爵位を授けられ1530年マントヴァ公国が成立した。

フェデリーコ2世は建築の才があり、早速、ジュリオ・ロマーノ(ミケランジェロの弟子)を招き、幾つかの建物をネッサンス風に新築したり改築したりした。
おしゃれな母、イサべラ デ エステ(1477-1539)は、芸術家、音楽家、作家と交際し、ギリシャ・ラテンの古典文学や歴史など語るサロンを設けた。芸術保護に熱心であった両親は、夫婦で国の財政に無頓着であったことから、ルネッサンス絵画、宝石、コインと美しいものは何でも収集したことは内外に有名であり人々をひきつけた。

テ離宮の馬の間

テ離宮の馬の間

一方、息子のフェデリーコが最も愛したのは“馬”であって、シチリア、アラビア、エジプトまで種馬を取り寄せ、競走馬の育成に熱心であったようだ。ジュリオ・ロマーノの建築した夏の離宮“テ”には広大な厩舎、競馬場が残されていることを地図で確認できた。

マントヴァは14世紀から17世紀にかけて小さな真珠のように輝いた国であった。

複雑に入り組んだドゥカーレ宮殿

複雑に入り組んだドゥカーレ宮殿

その後幾多の運命をたどりながらも不思議に守られていたのか、その黄金期に建てられた建造物が増築に増築を重ね、宮殿建築物の中には550もの部屋があるとも言われる。
現在、それらの部屋の装飾を修復しており、当時の趣を目にすることができる。
また、少なくなったとはいえ、収集された膨大な種類の品々も展示されていた。

ルーベンスを雇い入れたヴィンチェンツォ1世ゴンザガ

ルーベンスを招いたヴィンチェンツォ1世ゴンザガ公

ルーベンスを宮廷に招き入れたマントヴァ公爵ヴィンチェンツォ1世・ゴンザガ公も歴代の盟主に名を連ねている。
周囲を大国に囲まれ、小さいながら国を保持していくことは並大抵ではない。外交方策も怠りがなかったが、一方では教養深い芸術のパトロンとしてイタリア内外に知られていた。

彼のコレクションはルーベンスにとって“理想的な教師”であった。のびのびと羽根をのばし、多くの作品に浸ることが出来た。ルーベンスがこの静かな環境で公爵所蔵の優れた古代彫刻、フレスコ画など最高の作品と出会ったことは終生の宝である。
この広い居所のどこかに部屋を与えられていたに違いなく、神話の神々の絵画にも日常的に囲まれていたであろう。
アントワープへ帰郷してから描かれる絵画の原点を沢山鑑賞することが出来た。

しかし、ルーベンスが去った後の1629年ゴンザガ家の財政は破たんし、多くの収集品がイギリスのチャールス1世に買い取られていった。不思議な機縁であるが若き20代のルーベンスが目にしていた絵画を50代を過ぎて、イギリスで再び合いまみえることが出来たのである。

1707年ゴンザガ家最後の後継者が罷免され、マントヴァはオーストリアの支配に委ねられた。
この世紀にはサンタンドレア教会のドオモ、劇場、sordi  、Canossa palaceなどが建築され、再び芸術的な崇高さを帯びた町になった。
ハプスブルグ家の女皇帝マリア・テレサが庇護したのである。

しかし、世界は再び混乱状態に陥り、マントヴァは1866年に再びイタリアの国に併合された。

湖とポプラの木との美しい風景を維持しながら、観光、産業、農業と広がりを持ちながら今も生き続けている。

ドゥカーレ宮殿を望む

ドゥカーレ宮殿を望む

テ離宮

テ離宮

マントヴァ~歴史 13世紀まで

マントヴァのインフォメーション

マントヴァのインフォメーション

私が訪れた日は丁度シベリアの寒気団がヨーロッパ中を覆い尽くし、TVは60年ぶりだというシチリアの雪景色を映していた。

マントヴァも大変寒くて、観光地ながら人もまばらで余計に寒さを感じた。
が、インフォーメーションに寄ってみると、気合が入っているのである。

マントヴァ市が積極的に観光に力を入れていることを知った。自ら経営に乗り出したようだ。
パンフレットもイタリー語だけでなく英語、あるものは日本語でも用意されていた。

マントヴァのガイド

マントヴァのパンフレット

係の美しい女性が丁寧に分かりやすく観光の注意をしてくれる。
宮殿は2時から開館すること、教会はミサがあるので4時半に入ることが出来る。などなど。

閑散としたマントヴァの中心地

閑散としたマントヴァの中心地

町の中心と思える広場、古い円形の赤色の煉瓦つくりの教会、城塞と思われるようなのが、写真で見た裁判所であろう。寒いが静かな町がどっしりと目の前に現れている。人っ気のまったくない広場が魔法にかかったように私を中世の古へと誘う。

 

ルーベンスも通ったであろうドゥカーレ宮殿

ルーベンスも通ったであろうドゥカーレ宮殿

着いたよ、ルーベンスよ、こう叫びたくなるほど胸が熱くなった。

マントヴァは以下の歴史を持った町である。ざっと記しておきたい。

紀元前6世紀ないし5世紀のエトルリア人に遡るとされる。古くから12の都市が存在したらしい。
ミンチョ河と深い関わり合いがある。河が蛇行するたびその沈殿物によって二つの島が形成された。町はその上にあるので自然の要塞として守られている。どこかヴェネチアを思いだされる。

その後ミンチョ河の氾濫に悩まされ12世紀に、人工的にせき止めて、湖ができた。その結果スーペリオレ湖、メツォ湖、そしてインフォーレオレ湖と三方水に囲まれている。遠くに肥沃な平野が開かれて、山並みがそびえ、いとも美しい風景が広がる。

ローマ帝国の偉大な詩人ヴァ―ジルは、マントヴァ生まれでこの田園の静かな美しい町とイタリアへの愛をつなげて詩に歌っている。
マントヴァは神秘的な建立者の記憶をとどめ、ギリシャの神々からローマの神々へと捧げられた町となる。
そして ローマ帝国が衰退して蛮族の侵入を受けた時期、マントヴァの支配者もコロコロと変わっっていた。

12,3世紀には自由を守りぬいた結果、領土を広げていき、領主の宮殿も建てられ、町の周囲に壁が建てられ、次第に中世風の町となっていった。

マントヴァ~序 ルーベンスを想う

いよいよ、ルーベンス、マントヴァに到着する

1600年の初夏の頃、ルーベンスはマントヴァ公国に到着。
ゴンザガ公爵公より宮廷画家として召し抱えられたことは、ルーベンスにとってなんと幸せであったことか。
ここに彼の強運を見るのである。

マントヴァへの道

人口湖に囲まれたマントヴァへの道

ルーベンスは、1608年彼が故郷に急ぎ帰るまで8年間、宮廷画家として遇された。
公爵は、ルーベンスをマントヴァだけに留めることなく、スペインへの外交的任務を与えたり、新しい都市に随員として連れ出したり、画業の勉強の為ローマへ行かせるという大らかさを持たれた方で、若いルーベンスにとって最高のパトロンであったかもしれない。 続きを読む →

ヴェローナ その2~シェイクスピアを想う

シェークスピアはこの町、ヴェローナを舞台にして戯曲を書いている。

多くの観光客が訪れるジュリエットの家

多くの観光客が訪れるジュリエットの家

「ロミオとジュリエット」である。ジュリエットの家のバルコニーは今でも名所になっていて、沢山の若者たちがジュリエットの銅像の胸を触って写真を撮っていた。恋の成就を願っているらしい。家への入り口の高い壁にはギッシリと落書きがしてあった。縁結びの神様になっているのであろうか?

“ヴェロナの二紳士”という話もある。話の中ではマントヴァが逃避の場所。

そういえば、ヴェネツィアを舞台にした“ヴェニスの商人”もある。つくり話であるが、ユダヤ人が大きな商売を自由にできたのはヴェネツィアならではと思う。

古代ローマ時代から続くエルベ広場

古代ローマ時代から続くエルベ広場

“オセロ”もムーア人が元首になるのはあり得ない話という事だが、シェークスピアにはあり得ないことを劇的に書く才能があったのであろう。

シェークスピアは終生外国へ行った経験はないのに、なぜイタリアを舞台にした作品が多いのであろうか?
今回その謎が解けた。 続きを読む →

ヴェローナ その1~アレーナ、ドゥオーモ

ヴェネツィアからヴェローナへ向かう車窓から

ヴェネツィアからヴェローナへ向かう車窓から、ルーベンスの時代を想う

ルーベンスがヴェローナに滞在したという記述はお目にかからないが 「兄フィリップとヴェローナで会った。」という1行を見つけた。ヴェネツィアからマントヴァへ行くには当時もヴェローナを通過して行ったはずである。マントヴァは水に囲まれた町に訪れるルートが多いとは思えない。現在もヴェローナ発マントヴァ行きの電車が何本も出ているが、古の道路に沿って鉄道が敷かれたと想像する。

車窓からの風景はこれからの季節が美しいと思われる田園風景が広がっていた。ルーベンスはマントヴァへと旅路を急ぐ通過町として、横目で眺めながら心引かれていたのではないだろうか。今回は私の興味で留まることにした。 続きを読む →