ルーベンスの母 マリア・ぺイペリンクス

1608年、11月下旬にアントワープに着いた時、すでに母親は10月19日亡くなっていました。ルーベンスはどんなに悲しい思いをしたでしょうか。
当時は結婚しても男女別姓であったので、母親の名は、マリア・ぺイぺリンクスといいます。
ここで、愛情豊かな賢婦人の鏡のような人であったと思われる感動的なエピソードがあるのでご紹介しましょう。
この事はルーベンスの生まれる前の事件ですし、闇に葬ってもよろしいのですが、19世紀に入って、ある記録が見つかり公に公開されることになりました。
ルーベンスよ、お話してもよろしいでしょうね、

ルーベンスが生まれる前の話です。

後にオランダ初代王となるオラニエ公(オランダ デン・ハーグにある騎馬像)

後に実質のオランダ独立国家初代王となるオラニエ公(デン・ハーグにある騎馬像)

オラニエ公ウィレム一世と言えば、オランダの国民の方々にとっては建国の父で大変尊敬されている方ですが、英雄になるずっと前の若い時、スペインへの対抗として挙兵するための支援集めに東奔西走して、再婚した夫人を構う事が出来ませんでした。というと聞こえはよろしいのですが、婦人であった公妃ザクセン公女アンナはもともと情緒不安定で放埓な所があり、オラニエ公は辟易していたようで内心離婚を考えていたようです。
そのころ、婦人の公妃ザクセン公女アンナは、ドイツのケルンにほど近いジーゲン(独:Siegen)という都市の宮殿におりました。そこで事件が起こります。夫人と後にルーベンスの父となるヤン・ルーベンスの不倫が発覚したのです。ヤン・ルーベンスはプロテスタントのカルヴァン主義者の法律家で、プロテスタント迫害から逃れるために、マリア・ぺイペリンクスとともに夫婦でアントウェルペンからケルンへ逃れてきていたのです。そこで、オラニエ公妃アンナの法律顧問となり、婦人についてジーゲンに引っ越していたようです。

オラニエ公は即座に離縁をいたしました。絶対王政時代、貴族と平民の不義密通は平民の死刑にあたることでした。ヤンが不誠実な人とは思えませんからよほど夫人からの誘惑が強かったのでしょう。とにかくヤンは主君の妃との姦通罪とあって、死刑を宣告され城の牢獄に幽閉されました。

気の毒なのはルーベンス夫人マリアです。失意のどん底にいる夫へ手紙を書いて慰めたり励ましたりしたようです。
「このような苦しみのさなかにあるあなたを責めるなどという醜いことが、どうして私にできるでしょう。長いこと睦み合ってきた私たちの間柄で、私に対するあなたの些細な過ちを許せないほどの憎しみが、いまさら芽生えるはずがありません。・・・・・・あなたのために神に祈っています。子供たちもお父さんのために祈り、心からよろしくと申しております。子供たちはあなたにとても会いたがっています。そして私も・・・。どうかもう二度と「お前にふさわしくない夫」などとおっしゃらないでください。みんな水に流したのですから。」(『岩波 世界の美術 リュベンス』訳 高橋裕子 2003年 より)
また、オラニエ公の実家のナッソー家にも必死に執り成しの助命嘆願書を提出しました。
そのひたむきさが報われ、ナッソー家から特別な恩赦を頂きました。

ヤンはナッソー家から放免され、子供と愛妻のいる家庭へ戻ることが出来ました。夫の過ちを許す妻の愛情を見ると、ルーベンスの母親は一途で決断力のある強い女性だったようです。(ポールも手紙を書くのが得意だったようですが、これは母親の遺伝子を継いでいるのかもしれません。)

この事件の後、1574年に兄フィリップ、1577年にポールが生まれましたのですから、この母親がいなかったら二人の孝行息子は誕生しなかったことになります。
一家は恩赦の後もジーゲンにとどまることを求められていましたが、ほどなくして最終的な赦免を受けケルンへ移りますので、ルーベンスの幼児期の記憶は生まれたジーゲンではなく育ったケルンから始まるのかもしれません。

現在のルーベンス生誕の地(独:Siegen)

現在のルーベンス生誕の地(独:Siegen)

ルーベンスがこの地で生誕したことが書かれてい銅板。

ルーベンスがこの地で生誕したことが書かれている銅板

現在の元宮殿(中は公開されており、絵画などが飾られていた。ルーベンスの作品もあったが、撮影禁止でした)

現在の元宮殿
(中は公開されており、絵画などが飾られていた。ルーベンスの作品もあったが、撮影禁止だった)

宮殿から望むジーゲン(独:Siegen)の街並み

宮殿から望むジーゲン(独:Siegen)の街並み

母危篤の知らせを受けて

長い間、アップできず申し訳ありません。
若きルーベンスのイタリアでの充実した修行生活をこれまでお伝えしてまいりました。
引き続き、その後のルーベンスの人生についてご紹介していきたいと思います。

 

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(通称キエーザ・ヌオーヴァ)主祭壇

ローマのサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会の主祭壇画が完成するのを待っていたかのように72才の母、マリア・ペイぺリンクスが重い喘息で危篤状態に陥ったとの知らせを受けて、1608年10月、ルーベンスは馬に飛び乗ってローマを後にしたと書かれています。

イタリアに着いたとき、ルーベンスは23才の若さで、画家への夢と情熱に燃えていました。

ルーベンスは、画家としてイタリアのマントヴァの宮廷に職をついていましだが、彼の人柄や知性は外交使節としても重宝がられ、当時の有数の富豪や著名人とのコネクションを得ることができました。この経験は後に、ヨーロッパの主要な宮廷との関りを持った際に非常に助けとなりました。

また、芸術面では、古代彫刻、ルネッサンスの傑作、同時代の芸術家の仕事を学ぶことにより、イタリアの伝統を吸収することができたといえましょう。過去の形態やイメージを借用し、変容させ、ルーベンスの天才的想像力の開花の時期を迎えることとなります。

8年後、円熟した大人として、イタリアの画家たちと並んで名声を得、練達の芸術家としてこの国を後にしたのです。

 

アントワープに帰郷した後ですが、
ローマへ戻る意思が固まる前に次から次へと彼を引き留める要素が噴出して、結局ローマに戻ることなく、ルーベンスはフランダースの画家として一生を終えることになりました。それには、当時の時代背景が彼を離さなかったのだと思いますので、ここでそのことについて触れたいと思います。

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ)より)

16世紀なかばのヨーロッパ(「世界の歴史まっぷ」より)

 

1517年のマルチン・ルターによる宗教改革後、16世紀末にはヨーロッパのおよそ半分が公式にプロテスタント国になっていましたが、カトリック側の危機感に迫った対抗宗教改革対策により、17世紀初めにはその割合は大幅に減り、多くの領主が結局はカトリックに復帰していました。
そして、カトリック教会の改革運動の大半が、イグナチウス・デ・ロヨラーのような才能豊かな個人が宣教と教育の専門の修道会であるイエズス会を創設し、彼と修道会の人々により推進されたのです。

1566年のカルヴァン派信者によるイコノクラスム(聖像破壊運動)や長年の戦いによって大きな被害を受けた教会堂や宗教建築の修復に、カトリックは懸命に取り組みました。ネーデルランドのアルバート・イサベラ大公夫妻もその取り組みを支援していたため、南部ネーデルランドでは、宗教美術と宗教建築の一大ブームが起こりかけていたのです。

イタリアから戻ったルーベンスはそのような中で指導的役割を担うことになったため、フランドルを離れることができなかったようです。
近隣のブルッセル、メッヘレン、ゲントなどからも祭壇画制作の注文が入ることにより名声を確立し、北ヨーロッパ随一の画家とみなされるようになりました。
ルーベンスは、キリスト、聖人、使徒、聖書の中の女性、天使たちを人間らしく満ち満ちたものとして描き、人々の名声を勝ち得ていったのでした。

ローマ~1回目の訪問のその後

1602年にはマントヴァには帰っているようである。
1603年3月から4年夏まで ルーベンスは外交的性格を見込まれて マントヴァ公国の使節団としてスペイン王を訪問している。
この旅行のこともいずれ書かせていただきたいと願っている。

神聖ローマ帝国(ドイツ)が目と鼻の先に存在し、大国とローマ教皇庁との板挟みになりながら自国の権益を守るために、小国のマントヴァは、外交にはことのほか気を遣わねばならなかった。
日本からの天正使節団がローマを訪問すると聞けば、彼らを前もってもたなした。
スペインのような大国への貢ぎ物もゆるぎない関係を保つ上で大切な手段であった。
(今年5月に開催されていた“プラド美術館とヴェラスケス展”ではフェリーぺ4世がルーベンスの画を好まれ、政治上、宗教上、産業上でもフランドルと大変密な交流があったことを想起させてくれた。)

宮廷内の人間関係の上に、荒れた天気と王の移動が重なる苦難の旅行からマントヴァに帰ると、ゴンザーガ家から初めて祭壇画の注文が入った。
マントヴァのイエズス会の主祭壇に飾る“聖三位一体を礼拝するゴンザーガ家の人々”である。

この制作を終えて1605年、兄のいるローマを一目散に目指した。
ここにルーベンスのイタリア滞在中で最も幸せで、最も実り豊かな時期が存在する。
兄のフィリップと数か月共に過ごした至福の時があった。

この兄から、古美術の鑑定家になる素晴らしい知識を与えられた。
後にルーベンスは自ら美術品や骨董を収集するという新たな側面を担うことになる。

アントワープに帰国後、兄は1611年30代の若さで夭折してしまうので、ローマで受けた兄からの恩恵は、ルーベンスをより豊かに育てたと言ってよいであろう。

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む

ルーベンスも通ったであろうポポロ広場をピンチョの丘から望む~兄と住んだ家もここから近い

フィレンツェ~ミケランジェロの彫刻作品

土曜日午前中で閉まってしまうサンロレンツォ礼拝堂

土曜日午前中で閉まってしまうサンロレンツォ礼拝堂

2018年2月のフィレンツェの街も、また観光客であふれていた。

私の確認不足から予定した旅程では時間の足りないことがわかり、
汽車がサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅に着くや否や、ラゲージを預けて、
飛ぶようにサン・ロレンツオ教会とメディチ家の礼拝堂へ、急いだのだった。

納骨堂にはミケランジェロの彫刻作品、「聖母子像」「曙光」「黄昏」「昼」「夜」がある。

ミケランジェロによる聖母子像

ミケランジェロによる聖母子像(真ん中)

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

ミケランジェロによる『夜』と『昼」に装飾されたジュリアーノ・デ・メディチの霊廟

 

 

 

 

ミケランジェロ『黄昏』

修復中のミケランジェロ『黄昏』

ミケランジェロ『曙光』

修復中のミケランジェロ『曙光』

 

 

 

 

 

輝く白い大理石の女性・男性の横たわった姿である。
ルーベンスもこれらを目にして模写をしているようだ。
赤色のチョークでの模写も残っている。彫刻の冷たさを絵画の柔らかさに変えることを考えたのか。

美しいドゥオモ

美しいドゥオモ

続いて訪れた花の聖母寺院ドオモの見学も、セキュリティチェックのために、寒風の中長蛇の列であった。
私の前にも日本から卒業旅行で友達とやってきたというグループが予想外の寒さに震えながら並んでいた。
土曜日、日曜日に当たると見学時間が制限されるところが多い。しっかり検索しておく必要があると反省した。

ジョットの鐘楼

ジョットの鐘楼

それにしても こんなにも美しい巨大な大量の大理石を産出するイタリアは、どこまで芸術を高める運命を担っているのだろう。
ドゥオーモとサン・ジョバンニ礼拝堂とジォットの鐘楼が白色、淡い赤色と緑色と外壁をカラフルな大理石で飾られている建築物風景は、見ただけでフィレンツェを世に知らしめ、それはこの世の物とも思えぬ豊かな財産である。

 

安堵感と共に駅に引き返してホテルへとタクシーに乗った。
土曜日の昼下がりのホテルのチェックインは想像を絶するものだった。

ホテルからポンテヴェッキオを望む

ホテルからポンテヴェッキオを望む

ホテルがポンテ・ヴェッキオ近くだったため、
土曜日の昼下がりの混雑した群集の中を突破するのに、
タクシーの運転手は、なんといきなりラジオから大音響の音を発して
人を蹴散らして車を進行させた。
旧市街内では、「クラクションを鳴らせないから」と運転手は言っていた。

以前に訪れたときは、車のクラクションとバイクの音が、石畳に響き、
ゆっくり眠れなかったのを思い出したのだった。

フィレンツェ~マリー・ド・メディシスの結婚式

Firenze

Firenze

1600年10月 ルーベンスはマントヴァに落ち着く暇もなく大公と共にフィレンツェに赴くことになった。
メディチ家の公女、マリーがフランス王 アンリ4世と結婚するのだが、代理結婚式(妙な響きだが国王はフランスを離れず、代理人がマリアに結婚指輪を渡した。)という名の結婚式に招待され、10月5日の挙式に参列した。

フィレンツェ ドゥオーモ

フィレンツェ ドゥオーモ

式場はフィレンツェの象徴である花のドゥオーモ、聖母寺院であった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレが正式の名で、シンボルのドームの完成が1446年という事である。

 

私が訪れた時は身廊の通路が大変広くとってあり、脇に椅子が並べられて結婚式の様子が想像できた。

 

ドゥオーモ内部 前方から後方を見る

ドゥオーモ内部

広々とした聖堂内

祭壇

ドゥオーモの天井

ドゥオーモの天井

式典も華やかで内外からの招待者も多かったであろう。
招待者と共に 町のあらゆる階級の人々も参列したようだ。

例えば、金細工師、屋内装飾職人、軽業師、道化師、花火師、食堂の主人、菓子職人などもよばれ、町中で大宴会が繰り広げられたとのことである。

 

なお、正式な結婚式は12月7日リヨンで行われている。

王ルイ13世の母となったマリーとルーベンスとのつながりは、この結婚式参列に始まるのであるが、後年のことを誰が予測したであろう?

後年マリー・ド・メディチは ルーベンスのパトロンとなり、ルーベンスが描いた“マリー・ド・メディシスの生涯”の大作は 現在ルーブル美術館に一部屋を占領して飾られている。

ルーヴル美術館『マリー ドゥ メディシスの生涯』

ルーヴル美術館『マリー・ド・メディシスの生涯』

 

晩年マリーがフランスを抜け出してケルンに隠居して生涯を終えた時の邸宅は、幼いルーベンスが過ごしたその同じ邸宅であった。

結婚式出席の後、ルーベンスは大公からフィレンツェの芸術を鑑賞して勉強するようにとの言葉をかけられたことは想像に難くない。
淡紅色の美しい大理石の建造物に町の豊かさを見る。